李氏朝鮮時代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/17 02:15 UTC 版)
戦略拠点として南漢山城の重要性は太宗の代に本格化したと見られる。1401年遼東に行って来た李子瑛の報告に基づき、明が朝鮮を侵略するかも知れないという危機感が高まると、太宗は国境と内陸を問わず、郡別に山城を築き、既存の山城を改築し、山城中心の防御体制を構築し始めた。南漢山城もこのような国防政策によって 世宗代に軍事施設として利用し始めた。まだ太宗から世宗代に南漢山城が改築されたという記録はまだ発見されていないが、『世宗実録地理志』で南漢山城に対して比較的詳細に現況を把握した記録があるのだが、この記録は南漢山城を利用するために現況を把握したことと見られ、したがってこれを通じて当時改築や修理はしなかった。豊臣秀吉による文禄・慶長の役の最中1596年、柳成龍が南漢山城を戦略的拠点にすることを主張し、宣祖36年(1603年)にまた提起したりもしたが、実際、南漢山城が整備され始めたのは光海君13年(1621年)に石城として改築工事を始めてからである。この時一部が修築された。しかし光海君は完成を見られず、南漢山城が本格的に今のような形態に増築されたのは、仁祖の代になってからである。仁祖は光海君が終えることができなかったことを受け継いで 1624年から1626年まで2年間工事を推し進め、工事完了後、広州牧を南漢山城に移転し、守禦庁も同じ日に南漢山城に設置された。城の周囲も6,927歩となった。1636年の丙子の役で新興国家の清の侵略に対して、仁祖と朝鮮軍は南漢山城で篭城を始めたが、結局食糧不足で城門を開いて降伏した。朝鮮は南漢山城で清に屈服することになった。
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