紹興の和議
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紹興の和議(しょうこうのわぎ)もしくは皇統の和議(こうとうのわぎ)は、金と南宋の間の対立を終結させた条約。1142年(南宋の紹興12年/金の皇統2年)に成立した。

両国の国境線が定められ、南宋は淮河以北の旧領(かつての首都開封を含む)を放棄することとなった(西側は大散関を境とした)。1141年に宰相の秦檜が主戦派を抑えて条約を結び、南宋は金の臣となり南宋皇帝は金から冊封される地位とされ、毎年、銀25万両と絹25万疋を金に歳貢として献じることとなった。高宗は岳飛を死罪に処し、韓世忠を免ずることを強いられた。つまりこの条約は、金の朝貢国という立場へと、南宋を引き下げることとなった。
この関係は1164年まで続いた後、隆興の和議で両国の君臣関係が解消されて叔父(金)と甥(宋)の関係に改められ、歳貢を歳幣と改称したほか、歳幣もそれまでの銀25万両・絹25万疋から銀20万両・絹20万疋に減じられている。
紹興の和議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 12:17 UTC 版)
詳細は「紹興の和議」を参照 1142年10月11日、約1年の交渉の末、紹興の和議(金側の立場からは「皇統の和議」)が行われ、宋金両国の対立は終結した。この和議では、長江の北にある淮河が両国家の境界線とされ、更に宋は金に毎年銀25万両と絹25万本の歳幣を納めることに合意した。この条約により、南宋の地位は金の臣下となった。この文書では、宋を「下等国」とし、金を「上等国」としている。この条約は中国の記録には残っておらず、その屈辱的な評価を物語っている。協定の内容は金側での伝記から復元されたものである。この条約が決着すると、金人は北に退き、両帝国の間で貿易が再開された。この紹興の和議によって確保された平和はその後70年間続いたが、2度ほど中断された。1度は宋が、もう1度は金が始めた軍事作戦によってであった。
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