中国の南北分裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 06:44 UTC 版)
こうして金は北宋を滅ぼしたが、中国への急速な拡大は金の軍事的な限界点をあきらかにした。太宗は過度の負担を避けるため、華北に漢人による傀儡国家を樹立させて宋の残存勢力との間の緩衝体にしようとした。太宗ははじめ宋の宰相であった張邦昌を皇帝に据え、国号を楚とさせた。しかし張邦昌は、金軍が引き上げるとすぐに退位を宣言し、欽宗の弟の趙構(高宗)を皇帝位につける運動に加わった。 その後、趙構らは南に逃れ、南方の北宋残存勢力を糾合して南宋を立てた。金は、1125年から南宋に対する懲罰を名目として再度の南征を開始し(宋金戦争、1125年 - 1234年)、淮河の線まで南下して岳飛らが率いる義勇軍と戦った。 1130年、金は南宋の力を弱めるために、宋の地方知事であった劉豫を皇帝に立てて斉を樹立し、今度は安定した傀儡国家を作ることに成功した。同年、宋の官僚秦檜が捕虜となっていた金から南宋に帰国し、金との和平推進を唱えて実権を握った。金と南宋双方での和平派と戦争継続派の勢力交代の末、1142年に両国の間で最初の和約が結ばれた(紹興の和議)。この和約は宋は金に対して臣下の礼をとり、歳幣を毎年支払うことを定めるなど、金にとって圧倒的に優位な内容であった。
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