中国の反撃・撤退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/19 08:27 UTC 版)
日本軍に南昌市を奪われたのにもかかわらず、江西省にいる中国軍は引き続き抵抗を続けた。4月末に、日本軍は一部の部隊を他の地域での作戦を支援するために移動させた(襄東会戦を参照)。中国国民党は日本軍の戦闘部隊の兵力が弱体化したことを好機ととらえ、南昌市奪還のための反撃を計画した。日本軍の外部への接触を遮断し、後方から敵を攪乱させる作戦であった[要出典]。4月21日、第三戦区と第九戦区の勢力によって南昌の北・西・南から奇襲攻撃が行われた。南昌南部では、奇襲した国民党軍が迅速に日本の守備を突破。5日間の容赦ない攻撃の後、4月26日には南側から攻勢をかけていた第32集団軍が南昌市の郊外にまで侵攻した。一方、中国軍の攻勢の中でも日本軍は修水を保持し続け、そこから継続的に日本軍に補給と援軍を送り続けた。 4月27日、日本軍は市の南部で反撃を開始した。大砲による射撃支援と空からの支援によって、日本軍は都市周辺のいくつかの拠点を奪還。中国軍の師団は撤退することを余儀なくされた。翌週は、日中両軍が守備陣地にこもっていたため戦闘は停滞した状態となっていた。蔣介石はこの紛争を早急に終わらせることを望み、 5月2日に南昌を取り囲む中国の部隊に、5日までに都市を奪還するよう命じた。この命令によって、中国軍は南昌をめぐる戦争を早期に終わらせようと新たな攻撃を計画・開始したが、日本軍は継続的な援軍を送っており、この日本軍を押し返すことはできなかった。数日間の激しい戦闘の末中国軍側は死傷者を多数出し、疲弊し切って5月9日に撤退を余儀なくされた。同様に日本軍も疲弊していて、退却する中国軍の追撃はしなかった。
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