漢城条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/02 13:23 UTC 版)
漢城条約(かんじょうじょうやく)とは、1885年(明治18年)1月9日に日本と李氏朝鮮の間で締結された条約。
注釈
出典
- ^ a b c d e f g 海野(1995)pp.68-71
- ^ 国立公文書館アジア歴史資料センター「朝鮮暴動事件 一/1 〔明治17年12月12日から明治17年12月19日〕」レファレンスコード(B03030193500)朝鮮当局と竹添公使の間で交わされた書簡問答より
- ^ 国立公文書館アジア歴史資料センター「朝鮮事変/4 〔明治17年12月26日から明治17年12月31日〕」レファレンスコード(B03030194700)p.19- 竹添公使と督弁交渉通商事務趙秉鎬の会談記録
- ^ a b c 牧原(2008)pp.278-286
- ^ a b c d e f g 佐々木(1992)pp.224-229
- ^ 『「甲申事変」報道に見る「大新聞」の朝鮮・清国政策』中司 廣志(日本法政学会 法政論叢37(1) pp.162-172 2000.11.15)
漢城条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 00:27 UTC 版)
竹添公使は、在留邦人と公使館員を仁川の日本人居留地にまで退避させたのち、再び漢城にもどり、朝鮮政府と朝鮮駐留清国軍に対し「在漢城日本居留民への朝鮮民衆と清国軍の暴虐」および「仁川へと退避しようとしていた公使一行が朝鮮人と清国人に攻撃を受けたこと」に対する抗議文を発した。 朝鮮側は日本公使がクーデタにおいて、金玉均らの行動に積極的に加担し、6大臣暗殺等にも深く関与していると疑っており、公使が事変時に朝鮮政府への通達なく兵を率いて王宮に入ったことを強く非難した。これに対して竹添公使は、朝鮮国王による「日使来衛」(「日本公使よ、護衛の為に来たれ」)の親筆書と玉璽の押された詔書を示し、自身の行動は保護を求めた国王の要請に基づいた正当な行動であったと主張した。朝鮮側からは、重臣殺害の犯人を公使が捕らえているのならば国王護衛者としての資格を認めようと切り返され、日本側が正当性の裏づけとして示した親筆書は独立党一派が偽作したものであり、無効であると非難された。しかし、調べによって璽印は真正なものであることが認められた。政府の頭越しに無断で王宮に入ったことは批判されるべきことではあったが、これによって追及は後退した。両者は互いに自身の正当性を主張して譲らず、平行線をたどるばかりだったので、問題の解決は全権大使として派遣された井上馨外務卿の手に委ねられた。 日本国内では、公使や日本軍がクーデタに関与した事実は伏せられ、清国軍の襲撃と居留民が惨殺されたことのみが大きく報道されたこともあって、対朝・対清主戦論的な国民世論が醸成されていた。政府よりの12月29日付『東京日日新聞』が、朝鮮政府が「今回の事変は全く支那兵の企て」と釈明したうえ竹添公使に謝罪したと報じ、自由党の機関紙『自由新聞』は、「我が日本帝国を代表せる公使館を焚き、残酷にも我が同胞なる居留民を虐殺」した清を許すことはできず、中国全土を武力で「蹂躙」すべしとの論陣を張り、福澤諭吉の『時事新報』も「北京に進軍すべし」と主張した。『東京横浜毎日新聞』や『郵便報知新聞』もまた清国の非を論じた。自由党の本拠地高知県では片岡健吉が義勇兵団を組織し、日本各地で抗議集会や追悼集会が開かれ、日本陸軍主流や薩摩閥も派兵に向けて動いた。 しかし、当時の日本の軍事力・経済力では、清国との全面対決は回避すべき無理難題であることは、政府部内において一致する共通認識であった。井上外務卿の一行は12月22日に東京を出発し、1884年の暮れに軍艦3隻と2個大隊の陸軍兵を護衛につけて漢城入りした。交渉に参加したのは、日本側が井上全権大使、随員の井上毅参事院議官、朝鮮側が左議政(副首相相当)全権大臣金弘集、督弁統理交渉通商事務衙門趙秉鎬、同協弁メレンドルフらであった。 井上全権は、日本政府のクーデタへの関与を否定したうえで、日朝両国関係の速やかな修復が何よりも肝要であるとして、双方の主張の食い違いを全て棚上げにし、「朝鮮国内で日本人が害されたこと」および「日本公使館が焼失したこと」という明白な事実のみを対象に交渉を妥結することを提案した。金弘集全権は最終的に井上の提案に同意し、1885年(明治18年)1月9日、朝鮮国王の謝罪、日本人死傷者への補償金、日本公使館再建費用の負担などを定めた漢城条約が締結された。竹添公使には、罷免に近い「召還」の処分を下すことによって朝鮮政府の要求に応えた。交渉の席中、李鴻章より派遣されて1月1日に漢城入りした清国北洋副大臣の呉大澂は朝鮮の宗主国として日朝交渉を監視し、干渉しようとする場面もあったが、井上・金の両全権は日朝間の問題に清国が容喙することを拒んだ。撤兵問題に関して井上全権は、日清の二国間交渉に場を移すこととした。
※この「漢城条約」の解説は、「甲申政変」の解説の一部です。
「漢城条約」を含む「甲申政変」の記事については、「甲申政変」の概要を参照ください。
- 漢城条約のページへのリンク