政変後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/18 21:15 UTC 版)
甲申政変の発生と失敗によって在漢城駐箚公使竹添進一郎は、在留邦人と公使館員を仁川の日本人居留地にまで退避させると共に、朝鮮政府に対し『在漢城日本居留民への朝鮮民衆と清国軍の暴虐』及び、『仁川へと退避しようとしていた公使一行が朝鮮人と清国人に攻撃を受けたこと』に対する抗議文を駐留清国軍・朝鮮政府双方へ発した。 朝鮮側は日本公使がクーデタにおいて、金玉均ら独立党の行動に積極的に加担し、6大臣暗殺等にも深く関与していると疑っており、公使が事変時に朝鮮政府への通達なく兵を率いて王宮に入ったことを強く非難した。これに対して竹添公使は、朝鮮国王による「日使来衛」(「日本公使よ、護衛の為に来たれ」)の親筆書と玉璽の押された詔書を示し、自身の行動は保護を求めた国王の要請に基づいた正当な行動であったと主張した。双方の事件認識は、このように大きく食い違っていた。 のちに朝鮮側から、日本側が正当性の裏づけとして示した親筆書は独立党一派が偽作したものであり、無効であるとの反論がなされたものの、璽印は真正なものであることが認められた。政府の頭越しに無断で王宮に入ったことは批判されるべきことではあったが、これによって追及は後退した。両者は互いに自身の正当性を主張して譲らず、平行線をたどるばかりだったので、問題の解決は全権大使として派遣された井上馨外務卿の手に委ねられた。 日本国内では、公使や日本軍がクーデタに関与した事実は伏せられ、清国軍の襲撃と居留民が惨殺されたことのみが大きく報道されたこともあって、対朝・対清主戦論的な国民世論が醸成されていた。自由党の機関紙『自由新聞』は、「我が日本帝国を代表せる公使館を焚き、残酷にも我が同胞なる居留民を虐殺」した清を許すことはできず、中国全土を武力で「蹂躙」すべしとの論陣を張り、福澤諭吉の『時事新報』も「北京に進軍すべし」と主張した。『東京横浜毎日新聞』や『郵便報知新聞』もまた清国の非を報道した。自由党の本拠地高知県では片岡健吉が義勇兵団を組織し、日本各地で抗議集会や追悼集会が開かれ、日本陸軍主流や薩摩閥も派兵に向けて動いた。
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