政変決行とは? わかりやすく解説

政変決行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 17:00 UTC 版)

八月十八日の政変」の記事における「政変決行」の解説

文久3年8月18日午前4時頃、会津・淀・薩摩の藩兵が禁裏の六門を封鎖し配置完了した在京諸藩主にも参内命じられた。8時過ぎから諸藩主が参内し諸藩兵が御所九門固めた会津はちょう国元から交替の藩兵が上洛した時期で、帰国の途にあった藩兵も呼び戻して計約1800名を動員し政変中心となったが、会津次いで動員多かったのは阿波備前因州米沢淀藩で(薩摩藩兵は150名)、攘夷派を含めて27藩が兵を動員したこうした状況の中、大和行幸延期三条実美急進派公家15人の禁足他人面会禁止国事参政国事寄人廃止決議された。 その頃決起知った三条尊攘激派公家長州藩兵が堺町門東隣の鷹司邸に続々集まってきた。長州勢はそこから堺町門の内側繰り出したが、堺町門西隣の九条前に陣取る会津薩摩両藩の兵とにらみ合いになった中川宮松平容保稲葉正邦上杉斉憲米沢藩主)・池田茂政備前藩主)らで事態収拾会議持たれ長州堺町門の警備担当解き京都からの退去勧告することが決議された。万事決した後に召し受けた長州関白鷹司輔煕は、11時頃に参内して長州兵力は3であると告げ引き続き警備担当させることを主張した池田慶徳因州藩主)と蜂須賀茂韶阿波世子)も遅れて参加し長州警備継続唱えたが、決議は覆らなかった。 にらみ合い夕方まで続き三条らと長州勢は妙法院退去19日失脚した急進派公家のうち三条三条西季知四条隆謌東久世通禧壬生基修錦小路頼徳澤宣嘉の7人は禁足破り長州勢1千余とともに長州へと下った七卿落ち)。長州藩失地回復狙い翌年6月池田屋事件きっかけ京都出兵7月禁門の変会津薩摩らと戦火交えることとなる。 京都守護職19日から新選組市中巡邏させ、京都町奉行には止宿人の調査厳しく行わせた。また、因州備前阿波米沢など13藩が輪番市中警備当たった

※この「政変決行」の解説は、「八月十八日の政変」の解説の一部です。
「政変決行」を含む「八月十八日の政変」の記事については、「八月十八日の政変」の概要を参照ください。

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