大和行幸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 06:52 UTC 版)
文久2年(1862年)12月、孝明天皇は攘夷の勅書を将軍徳川家茂に授けた。これに対して家茂は、攘夷の策略については、明年3月に上洛の上回答する旨を奉答する。文久3年3月に家茂は上洛し、幕府は尊攘派の圧力に屈する形で、5月10日をもって攘夷を決行すると約束させられる。 幕府は右の期限をもって、通商条約の破棄について諸外国との交渉を開始することとし、諸藩には海防の強化を命じたが、尊攘派が主導する長州藩はこれを拡大解釈し、5月10日、下関海峡を通過するアメリカ船を砲撃して「攘夷」を決行した(下関戦争)。この武力行使には、急進的な攘夷派公卿の侍従中山忠光が長州藩に招かれて参加しており、忠光の京からの出奔には土佐脱藩浪士の吉村虎太郎が加担していた。 長州藩は続いてフランス船、オランダ船を砲撃し、朝廷からも攘夷決行を称賛する沙汰が下される。しかし、6月に入って米仏艦隊による報復攻撃に長州藩は敗北(下関戦争)、7月、中山忠光は京へ戻るものの謹慎を命じられ、侍従の職も剥奪されてしまう。 吉村は松本奎堂や池内蔵太、真木和泉らと長州へ赴き、6月17日、山口で長州藩主毛利敬親・定広父子に謁見し、挙兵上京を願っている。しかし、外国艦隊による報復攻撃を受けていた長州藩ではその余裕はなく、長州藩としてはとりあえず家老の指揮で500人程度の兵を上洛させるとの約束を得た。この際、吉村は久坂玄瑞や高杉晋作らと連絡を取っている。 尊攘派の間では不甲斐ない幕府に対する怒りが強く、天皇自らが軍を率いて攘夷を決行するという攘夷親征を望む声が高まっていた。そこで、古代より祭礼に勅使が派遣されていた大和の春日大社に、天皇自らが赴いて攘夷の成功を祈願し、攘夷倒幕の兵を挙げるという計画が画策された。計画では、大和の神武天皇陵、春日大社を参拝後、軍議を開いて諸藩に攘夷の檄を飛ばし、伊勢神宮に参詣した上で、幕府に対し攘夷不履行の罪を問い、兵を集めつつ伊勢から江戸に迫るというものであった。 8月13日、天皇の神武天皇陵参拝、攘夷親征の詔勅が発せられる(大和行幸)。大和行幸を推進したのが、長州藩に気脈を通じる三条実美ら急進的な攘夷派公卿であった。また、武力倒幕の計画は寺田屋騒動で挫折していたため、尊攘派志士達の間でも大和行幸に対する期待は大きかった。 朝廷は長州藩に対し藩主敬親か世子定広のどちらかが上京することを求め、長州藩、薩摩藩、土佐藩、加賀藩、熊本藩、久留米藩に対して軍用金の調達を命じるなど、計画の実行に向けて動き出した。 吉村虎太郎は松本奎堂、藤本鉄石、池内蔵太や、河内の水郡善之祐ら攘夷派浪士と共に、大和行幸の先鋒となるべく「皇軍御先鋒」を組織して大和国へ赴くことを決議した。大和国の大部分は幕府の天領であったため、行幸に先立って幕府代官を討って大和を平定し、幕府が支配していた土地と人民を朝廷に返上し、兵を募って御親兵として天皇を迎えようとしたのである。
※この「大和行幸」の解説は、「天誅組の変」の解説の一部です。
「大和行幸」を含む「天誅組の変」の記事については、「天誅組の変」の概要を参照ください。
- 大和行幸のページへのリンク