京都の政変と長州藩の孤立化
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「下関戦争」の記事における「京都の政変と長州藩の孤立化」の解説
幕府は、文久3年7月8日(1863年8月21日)、国の方針が確定する前の外国船への砲撃は慎むよう長州藩に通告した。7月16日には旗本の中根市之丞らを軍艦「朝陽丸」で派遣し、無断での外国船砲撃や小倉藩領侵入について長州藩を詰問した。ところが、長州の奇兵隊員たちは、アメリカ軍との交戦で失った長州艦の代用として「朝陽丸」の提供を要求し、8月9日には「朝陽丸」を拿捕。さらに、8月19日-20日には中根市之丞らを暗殺した(朝陽丸事件)。 8月13日、三条実美ら攘夷派公卿の画策により、孝明天皇の神武天皇陵参拝と攘夷親征の詔が下る(大和行幸)。これに呼応して大和国では天誅組が挙兵した(天誅組の変)。京都の政局は長州藩を支持する攘夷派が主導権を握っていたが、8月18日に薩摩藩と藩主松平容保が京都守護職を務める会津藩が結託して孝明天皇の了承のもとクーデターを起こし、攘夷派公卿は失脚、長州藩も朝廷から排除された(八月十八日の政変)。天誅組は周辺諸藩の討伐を受けて壊滅した。 長州藩をはじめとする攘夷派の京都での勢力は後退し、志士たちは潜伏を余儀なくされた。翌年の元治元年6月5日(1864年7月8日)には池田屋事件で攘夷派志士多数が殺害捕縛される。7月、孤立を深め追い詰められた長州藩は「藩主の冤罪を帝に訴える」と称して兵を京都へ派遣し、局面の一挙打開を図った。長州軍は強引に入京を試み、待ち構えた会津、桑名を主力とする幕府側と交戦して御所にまで侵入したが、御所の守りについていた薩摩藩兵が援軍として駆けつけたことにより撃退され、惨敗を招く結果となった。(禁門の変) このほか、文久3年12月24日(1864年2月1日)には、関門海峡を航行中の薩摩藩使用の洋式船「長崎丸」(幕府より貸与)を、長州藩の陸上砲台が砲撃し、薩摩藩士24人が死亡した。当日は視界不良で薩摩藩の船と認識しての砲撃であったかは不明であるが、長州藩の謝罪で一応は解決した。しかしながら、翌年にも長州藩兵が薩摩藩の御用商船「加徳丸」を焼き討ちし、乗員を殺害する事件が起きている。
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