てんちゅう‐ぐみ【天誅組/天忠組】
天誅組
天誅組
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 13:35 UTC 版)
早くより真木保臣ら尊王攘夷派の志士と交わって公武合体派の排斥運動では急先鋒となって画策した。文久3年(1863年)2月、朝廷に国事寄人が新設されると19歳でこれに加えられたが、密かに京都を脱して長州藩に身を投じ、官位を返上して森俊斎(秀斎)と改名。久坂玄瑞が率いる光明寺党の党首として下関における外国船砲撃に参加した。7月18日、水戸藩士吉成勇太郎らと面談。生野の変に参加した水戸藩士関口泰次郎等を、長州へ送る計画について話した。8月13日に大和行幸の詔が出されると攘夷先鋒の勅命を奉じると称して退京し、吉村らと共に大和行幸の先鋒組織として『天誅組』を立ち上げ、大和五條の代官所を襲撃して挙兵した(天誅組の変)。
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