挙兵・五條代官所襲撃
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8月14日、吉村らの計画に賛同し事前に連絡を取っていた中山忠光は方広寺へ入り、決起を促す回状を発した。また朝廷に対し出陣を届け出てその目的を述べ、親征の早期実施を求めた。主将中山忠光以下40名(土佐脱藩19名、久留米脱藩8名、刈谷脱藩3名、鳥取脱藩2名、島原脱藩2名、福岡、熊本、下館脱藩各1名、河内志士2名)は方広寺を出発して大和国へ向かった。一行は長州下関へ下る勅使と偽って大坂から海路で堺へ向かう。船中で軍令を発し、忠光ら同志一行は断髪して決意を示した。彼らの挙兵に際して淡路の大地主で勤皇家であった古東領左衛門は財産を全て処分し、軍資金として供出した。 8月15日、堺(現在の堺市堺区栄橋町1丁の土居川沿い、当地に堺事件の碑とならんで「天誅組上陸地」の碑が建てられている)に到着した同志一行(以降、天誅組と記す)は翌16日払暁に高野街道を通って河内をめざし、狭山に入った。天誅組は吉村らを軍使として狭山藩の陣屋へ送り、先代藩主で隠居の身であった北条氏燕との面会を申し出た。氏燕は急病と偽って面会を断り、家老朝比奈縫殿が代って対応する。忠光は朝比奈に狭山藩も出陣して義挙に加わるよう命じた。対応に苦慮した狭山藩はとりあえず天誅組にゲベール銃など銃器武具を贈り、天皇親征の節には加わる旨を回答する。16日、天誅組は河内の同志水郡善之祐の屋敷に到着し、河内勢13名が合流、下館藩の飛び地である白木陣屋にも使者を送り、銃器武具を差し出させている。天誅組は菊の御紋の入った旌一流、「七生賊滅天後照覧」と大書された幟一本を作り士気を高めた。17日、天誅組は河内檜尾山観心寺に入り、勤皇の忠臣楠木正成の首塚を参拝。軍資金を調達に出ていた藤本鉄石ら3名が合流して出発、国境の千早峠を越えて大和国へ入った。 大和の同志を加えつつ進んだ天誅組は、17日午後4時頃、幕府天領の五條に到着し、五條代官所を襲撃した。天誅組は五條出身の同志による情報で、代官所内部の構造や戦力を事前に把握していた。代官所を包囲した天誅組は代官・鈴木正信(源内)に、降伏と幕府領の引き渡しを要求、鈴木代官がこれを拒否すると攻撃を開始した。襲撃当時、代官所邸内では酒宴が開かれており、邸内は大混乱に陥った。ゲベール銃隊を率いる池内蔵太が空砲で威嚇し、吉村が率いる槍隊が裏門から突入した。代官所に在所していた役人は13人で他には鈴木代官の妻などしかいなかった。意気軒昂な天誅組の突然の襲撃に抗することができず代官所方は敗北し、鈴木正信と下僚ら4名が殺害され、逃亡した内の1名は逃げ切れず自刃した。天誅組は代官所を焼き払い、桜井寺を本陣に定め、門前に「五條御政府」の表札を掲げた。 18日、天誅組は鈴木正信ら5名を梟首し、五條を「天朝直轄地」と称して、この年の年貢を半減することを宣言する。天誅組は忠光を主将、吉村、松本奎堂、藤本鉄石を総裁とする職制を整え、自らを「御政府」または「総裁所」と称した。この頃、伴林光平、平岡鳩平(北畠治房)、市川精一郎(三枝蓊)、乾十郎ら大和勢が加わっている。 桜井寺を本拠に天誅組は周辺地域の掌握に努め、旗本領の在地代官に使者を送って接収し、近隣諸藩に使者を派遣して恭順を迫った。高取藩には那須信吾らを恭順勧告に送り、高取藩もこれに服する旨を伝えてきた。また、紀州藩には池内蔵太らを派遣した。 一方、天誅組の挙兵を知った京の三条実美は自重を促すべく平野国臣を使者に送ったが、到着したのは五條代官所襲撃の後であった。
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