挙兵と自立とは? わかりやすく解説

挙兵と自立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 22:36 UTC 版)

張楊」の記事における「挙兵と自立」の解説

霊帝時代武勇で名を知られるようになり、武猛従事として採り立てられ并州刺史丁原属した。 後に霊帝中央の常備軍西園軍)を整備し、軍を指揮する上軍校尉寵愛する蹇碩任命すると共に各地から軍勢集めさせた。張楊丁原命令并州軍勢指揮して上京したところ、蹇碩招かれ司馬任命された。 霊帝崩御し蹇碩何進殺害される張楊何進属し故郷并州戻って募兵命じられた。1000余りの兵を集め上党郡に留まって山賊討伐した。 何進死去し董卓政権を握ると、張楊壷関にいた上党太守攻撃加えたが、落すことができなかったのでそのまま近隣の県を侵略し軍勢数千膨れ上がらせた。 山東諸侯が反董卓義兵起こすと、張楊河内駐屯し袁紹軍勢合流し匈奴単于である於夫羅と共に漳水駐屯した。 初平2年191年)秋7月韓馥袁紹戦わず降伏し冀州譲ったのは、張楊合流により袁紹軍勢強盛となっていたという理由もあった(魏志武帝紀」・魏志袁紹伝」が引く『九州春秋』)。 後に於夫羅が叛いたが、袁紹張楊はそれに同調しなかった。於夫羅張楊捕らえそのまま連行した袁紹が麴義を派遣し攻撃する於夫羅敗れたが、引き続き張楊捕まえたまま黎陽にいる度遼将軍の耿祉を破って再起したその後張楊董卓から建義将軍河内太守任命され河内郡野王県駐屯した。 呂布董卓暗殺した後、政争敗れて長安より出奔し袁術袁紹の元を渡り歩いていたが、袁紹不興を買い殺害されそうになったため、張楊元に庇護求めてきた(魏志呂布伝」)。張楊同郷の誼(呂布五原郡出身)で呂布受け入れたため、袁紹呂布恐れ攻撃できなかった(魏志呂布伝」)。一説には、長安牛耳る李傕郭汜の目を気にし、その要請に応じて呂布殺害しようとしたが、呂布堂々と振舞ったため決行できなかったという(魏志呂布伝」が引く『英雄記』)。 同じく袁紹の元から流れてきた董昭河内訪れていたため、張楊はこれを引き留め幕下加えた曹操長安にいる献帝と誼を通じるため使者派遣した時、張楊董昭進言受け入れこれを援助したため、曹操親しくなったという(「董昭伝」)。 張楊人物像については、慈愛深く温和で、刑罰威嚇することをしない性格であり、使用人謀反発覚したときも、涙を流して不問にしたと伝わっている(『英雄記』。)

※この「挙兵と自立」の解説は、「張楊」の解説の一部です。
「挙兵と自立」を含む「張楊」の記事については、「張楊」の概要を参照ください。

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