挙兵、政権奪取
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 00:33 UTC 版)
文亀元年(1501年)、誕生。 永正17年(1520年)、三好氏の総帥であった之長は細川高国に敗れた際に処刑されており、その世子であった長秀はそれ以前に戦死していた。このため、之長の直系であった元長が三好氏の新たな総帥となったものの、高国への反撃に出られぬまま阿波国において、之長が擁立していた主筋である細川澄元の遺児・六郎(後の晴元)と共に逼塞していた。 将軍に返り咲かせた足利義稙との仲違いに陥ったものの、新将軍に足利義晴を据える事でなおも磐石を保った高国の独裁政権であったが、大永6年(1526年)7月に細川尹賢の讒言で香西元盛を誅殺した事から綻びを見せた。謂れの無い上意討ちに元盛の兄弟・波多野元清と柳本賢治が丹波国で造反し、高国の政権は鎮定に失敗、軍事力の弱さを露呈したのである。 これを好機と捉えた元長たちは、同年10月に阿波国で挙兵。足利義維(義晴の兄弟)を擁して高国軍に挑む主君・細川六郎を助けて、畿内まで進軍して越年。高国に造反した波多野軍との合流を果たすと、大永7年(1527年)3月には高国と義晴の連合軍と激突し、これを撃破(桂川原の戦い)。高国たちを近江国へ追放し、立場を逆転させた。 さらに、遁走により政治機能を喪失した高国政権に替わるべく堺公方(堺大樹)の樹立に貢献。同年11月19日には、近江国の六角定頼と越前国の朝倉宗滴らの加勢を得て、堺公方派の駆逐を期する高国軍を桂川周辺の泉乗寺(川勝寺)で撃退、細川六郎による新たな畿内支配体制を確立させるべく尽力した。
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