挙兵の動機
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以仁王と頼政が反平氏を唱えた挙兵の意思を固めた経緯と動機には諸説ある。 『平家物語』では、挙兵の動機は、頼政の嫡男・仲綱と平宗盛(清盛の三男)の馬をめぐる軋轢ということになっている。宗盛が仲綱の愛馬“木の下(このした)”を欲しがった。仲綱は断ったが、宗盛は平氏の権勢を傘にしつこく要求し、頼政に諭されて、仲綱はしぶしぶ“木の下”を譲った。宗盛はすぐに譲らなかったことが気に入らず、“木の下”の名を“仲綱”と改めて焼印を押し、「仲綱、仲綱」と呼んで引き回したり鞭打ったりした。この屈辱と恥辱が、頼政・仲綱父子に謀反を決意させた。 この事件が事実がどうかはともかく、平氏一門の専横と源氏への日頃の軽侮に対する長年の不満の爆発は、理由として挙げられている。 他に、頼政等摂津源氏は鳥羽上皇直系の近衛天皇、二条天皇に仕える大内守護の任にあったことから、別系統の高倉・安徳天皇の即位に反発したという説もある。 『平家物語』では、頼政が夜半に不遇の以仁王の邸を訪れ、謀反を持ちかけたことになっているが、当時頼政は77歳という高齢であり、皇位への道を断たれて不満を持っていた以仁王の方から頼政に挙兵を持ちかけたという見方もある。 もっとも、頼政と以仁王が挙兵以前に関係を有していたことを示す証拠が、同時代の貴族の日記などの史料には存在せず、脚色の入る余地がある『平家物語』とそこから派生した書物にしか求められないことなどを理由に初めから謀議などはなかったという見方もある。その見方によれば頼政の離反の原因として彼の篤い仏教信仰が背景として挙げられ、頼政は以前にも彼が配流のために護送していた天台座主明雲を延暦寺大衆が奪還しに来た際も抵抗せずに奪われている前例があること、今回も検非違使として以仁王を逃がした兼綱の責任を問われている状況下において既に出家していた頼政が以仁王を匿う園城寺の寺院や僧侶への攻撃を拒絶したために、今度は頼政親子が命令違反で捕らえられる可能性が浮上し、追い詰められた頼政親子がやむなく以仁王側について敵対するに至ったとする。
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