挙兵失敗と謀反人として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:40 UTC 版)
しかし王の顔を知るものは少なく、東国生存説が巷に流れた。以仁王自身の平氏追討計画は失敗に終わったが、彼の令旨を受けて源頼朝や木曾義仲など各地の源氏が挙兵し、これが平氏滅亡の糸口となった。なお朝廷は当初この令旨を偽物と考えていたが、後にこれが事実の疑いが出てきたこと、加えて以仁王が高倉天皇(以仁王の弟)及び安徳天皇(以仁王の甥)に替わって即位することを仄めかす文章が含まれていたことに強く反発した。後白河法皇にとって高倉天皇は治天の権威によって自らが選んだ後継者であり、その子孫に皇位を継承させることは京都の公家社会では共通の認識であったためである。このため、京都では以仁王の行動は次第に皇位簒奪を謀ったものと受け取られるようになっていった。乱から16年が経過した建久7年(1196年)になっても以仁王は「刑人」と呼称されて謀反人としての扱いを受けている(『玉葉』建久7年正月15日条)。 第一王子の北陸宮は義仲のもとに逃れてその旗頭に奉じられ、また第二王子の若宮は平氏に捕まり、道尊と名乗って仏門に入った。八条院三位局(高階盛章の娘)が産んだ王女である三条宮姫宮は、建久7年(1196年)に八条院より安楽寿院・歓喜光院などを一期分として譲与されている。
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