挙兵の準備と目的
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正行がいつごろから北朝に対する戦闘準備を始めたのか正確には不明である。某年4月24日、吉野殿の兵糧について、正行が金剛寺に宛てた書状が存在するが(土橋嘉兵衛旧蔵文書『思文閣古書資料目録』202)、肝心の年次が記載されていない。 やがて、正行は正平2年/貞和3年(1347年)に挙兵することになる。正行が挙兵した理由について、軍記物語『太平記』流布本巻25「藤井寺合戦の事」では父の十三回忌だからとなっているが、史実では父の死から数えで12年しか経っていない。藤田精一や生駒孝臣は正行を主戦派とする『太平記』的見解に立ち、雌伏の時を過ごした上での満を持した挙兵であったとするが、 なぜ特にこの時期でなければならなかったのか、 なぜ河内守となって7年間も一切軍事行動に(少なくとも表向きは)関わっていなかったのに突然具体的な攻勢に出たのか、 なぜ北朝に比べ圧倒的に軍事力に劣る南朝から攻撃を仕掛けたのか、どのような全体構想の元に戦いをしていたのか、 といった点には言及していない。 一方、正行和平派説を唱える岡野友彦の論では以下のようになる。 興国5年/康永3年(1344年)春に吉野に帰還した北畠親房は、まず和平派の影響力を取り除くことにしばらくの時間を費やした。そして、南朝の事実上の指導者となった親房は、幕府に勝利するための計画を練り、「失敗の許されない最後の勝負」の準備が整ったのが正平2年/貞和3年(1347年)という時期である。 そして、正行は本来は和平派であるが、一武将としての立場上は従一位准大臣である親房の決定に従う他はなく、強制的に足利方と戦わざるを得なかったのではないか、とする。 また、この後に続く正行の一連の戦いの全体構想については、当時、室町幕府の実質的な最高権力者である足利直義(尊氏の弟)と尊氏の片腕である執事高師直との間で対立関係が発生していたことに着目する。岡野によれば、親房は、この亀裂に外から一突きを加えれば、やがて幕府内部で抗争を起こして自壊するに違いない、と計画したのではないかという。 最後の直義と師直の対立関係については、亀田俊和の主張によれば、師直は後醍醐天皇の諸改革を範とする革新派の政治家で、後醍醐が作り上げた雑訴決断所の法制度を元に、執事施行状という、恩賞(土地)の宛行(給付)に強制執行力を付加した文書・制度を考案したという。その反対に、直義は、鎌倉執権北条義時・北条泰時(『御成敗式目』の制定者)の治世を理想とする保守派の政治家であり、師直の新しい文書形式を好まなかったのだという。対立関係が表面化した具体的な事例の一つとして、亀田は「仁政方」という機関が師直の本拠ではないかと推測し、興国2年/暦応4年(1341年)10月3日、室町幕府追加法第七条によって、仁政方の沙汰付(強制執行)権限が、直義の本拠である引付方に接収されたことを挙げている。しかもなお、師直は直義の決定を無視して執事施行状を発給し続けた。 そして、親房は当時東国にいながらにして、京都にいる直義・師直の間の不和の情報をつかんでいた。岡野はその史証として、親房が常陸国(茨城県)にいたころ、興国4年/康永2(1343年)7月3日に結城親朝に宛てた書状に「京都凶徒の作法以ての外と聞こえ候、直義・師直の不和、すでに相克に及ぶと云々」(『相楽結城文書』)とあることを指摘する。
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