挙兵と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 00:01 UTC 版)
賈氏一派が粛清されると司馬倫が朝政を専断するようになったが、司馬允は司馬倫が分を弁えずに好き勝手振る舞っているのを不平を抱いた。また、司馬倫が側近孫秀と共に異謀(帝位簒奪)を抱いていると知り、その排斥を目論んで秘かに決起兵を養った。これを察知した司馬倫は、司馬允を太尉に昇格させる事で中護軍の兵権を奪おうとしたが、司馬允は病と称して辞退した。これを受けて孫秀は御史劉機を派遣し、詔と偽って司馬允の印綬を奪い取った上でその配下を逮捕させ、さらに大逆不敬の罪で司馬允を弾劾した。これを知り激怒した司馬允は、淮南兵と中護軍の兵700人を率いて宮殿に向かい、その途上で「趙王が謀反を起こしたので討伐する。協力する者は左肩を出せ!」と呼び掛け、宮殿に到着するまでに多くの賛同者を得た。しかし、尚書左丞王輿は掖門を閉じたので、宮中に入るのを諦めて東宮にある司馬倫のいる相国府に向かい、これを包囲した。 司馬倫は迎撃に当たったが、司馬允の兵は精鋭揃いであったので、連敗を喫して1000人余りの死者を出した。さらに太子左率陳徽が東宮の兵を集めて軍鼓を鳴らして司馬允に内から呼応すると、承華門の前で合流した。司馬允はここで陣を構えて雨のように弓弩を降らせ、全ての木に数百の矢が刺さるほどの攻勢に打って出た。陳徽の兄である中書令陳準が司馬允を援護しようと思い、恵帝が持つ白虎幡(晋代の皇帝の督戦の節)を手に入れると、司馬督護の伏胤に騎兵400を与えて司馬允の下に白虎幡を届けさせ、司馬倫が逆賊である事を示して戦いを収めさせようと試みた。しかしこの時、伏胤は司馬倫の息子である汝陰王司馬虔から密かに寝返りを持ち掛けられており、かくして伏胤は「淮南王(司馬允)を援護する」という偽の詔書を持って司馬允の陣に赴いた。司馬允は警戒せずに門を開いて軍勢を導き入れたが、下車して詔を受けようとした所で伏胤に殺された。 これにより司馬允軍は瓦解し、子の秦王司馬郁と漢王司馬迪ともう一人の子も殺害され、数千人が連座して処刑された。司馬倫の兵が敗北した時、司馬倫を捕らえたと言う噂が広まり、万民は大いに歓喜した。しかし後に司馬允が死んだと聞くと、嘆息しない人はいなかったという。 その後司馬倫が誅殺されると、斉王司馬冏は上表して司馬允について論じ、その死を悼んだ。詔が下り、司馬允は改葬されて殊礼を賜り、司徒を追贈され、淮南忠壮王と諡された。司馬允の子はみな殺害されたので、司馬冏の子の司馬超が淮南王を継いだ。
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