朝政を専断
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司馬亮・衛瓘・司馬瑋らの粛清により、賈南風は賈謐(妹の賈午の子)・郭彰ら一族と共に、朝廷の実権を握り天下を欲しいがままとした。賈南風は賈謐と協議の上で張華を侍中・中書監に、裴頠を侍中に、賈模を散騎常侍・侍中に、安南将軍裴楷を中書令・侍中に任じ、右僕射王戎と共に政務を補佐させた。張華・裴頠らは賢臣であったので、共に力を合わせて国政を大いに安定させる事に成功し、賈南風も張華に対してだけは尊敬の念を保ったという。 賈南風自身は執政に関わる事はなく、専ら遊興に耽る日々を過ごした。その淫虐は日々酷くなり、太医令程拠らとも密かに肉体関係を持つようになった。また、彼女は外で若い男を見つけると、竹箱に入れて宮中に運びこみ、行為に及んだこともあったという。秘密が漏れることを恐れ、彼等の多くは事を終えた後に殺害されたという。 賈南風は4人の女子を生んだが、男子は生まれなかった。皇太子司馬遹は食肉処理業者の娘である淑妃謝玖の子であり、賈南風の子ではなかった。賈皇后は賈午の夫の韓寿の子である韓慰祖(賈謐の兄弟)を密かに宮中で養わせ、自らの子と偽って司馬遹に代えようとした、という話が『晋書』に書かれている。郭槐は娘に子が産まれないため、司馬遹を実子のように育てるよう諭したが、賈南風は彼を忌み嫌っていた。また、郭槐は韓寿の娘(賈謐・韓慰祖の姉妹で、司馬遹の従姉妹)を太子妃に立てようとしたが、賈南風は賈午と共に猛反対し、王衍の娘の王恵風を司馬遹と結婚させた。 賈南風の親戚である賈模は禍が降りかかるのを恐れ、裴頠・張華と謀議し、賈南風を廃立して皇太子司馬遹の母である謝玖を皇后に立てようと考えた。だが、裴頠らは危険を恐れて結局実行に移す事は無かった。彼らは賈南風の母の郭槐の下へ赴くと、賈南風へ皇太子と親しく接し、宮中での行いを慎むように諫めて欲しいと頼みこんだ。賈模もまた幾度も賈南風へ諫言したが、賈南風はこれらの諫言を聞き入れず、逆に賈模が自分を誹謗していると考えて距離を置くようになり、賈模は憂憤から病にかかり死去した。 296年夏、長安を守っていた征西大将軍・趙王司馬倫が洛陽に召喚されると彼は賈氏一派に取り入るようになり、賈南風からも信任されるようになった。また299年6月、賈謐は皇太子司馬遹へ無礼な態度を取った事を成都王司馬穎に咎められ、逆上して賈南風へ司馬穎を讒言した。賈南風は司馬穎を平北将軍に任じて鄴の鎮守を命じ、朝廷から追い出した。
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朝政を専断
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302年3月、皇太孫司馬尚が亡くなった。恵帝は子の司馬遹と孫の司馬虨・司馬臧・司馬尚を立て続けに亡くしており、直系の後継者がいなかったので、恵帝の弟である司馬穎が後継ぎの有力候補になった。だが、長期に渡る専政を目論んでいた司馬冏は、まだ8歳である清河王司馬覃(恵帝の弟の司馬遐の子)を皇太子に擁立し、司馬冏は太子太師となってその養育に当たった。 司馬冏は権力を握ってからは奢侈な生活を送るようになり、酒食に溺れて入朝を行わなくなり、自らの府に百官を招いて政務を行った。皇帝の批准を仰がずに事案の決済を行い、独断で三台(尚書台・御史台・謁者台)に命を出し、官員の任用や免官も自らの判断で行った。殿中御史桓豹は上表を行ったとき、司馬冏の王府を通さなかった事で罰を受けた。また邸宅や屋敷の建築・改築も繰り返し行われ、その様相は皇宮に匹敵するほどの豪華さとなったという。また、北の五穀を売買する市場から税を徴収し、千秋門の壁を壊して西閤への道を作り、後房には鐘や楽器を懸け、前庭には八佾舞踊を隊列させた。こうした行いにより、民衆は大いに失望したといわれる。 侍中嵆紹は上書し、易経や古代の堯・舜・禹の故事を引き合いに出して司馬冏を諫めたが、司馬冏はこの意見に理解を示して自らの誤りを認めたものの、行動を改めることはなかった。また南陽の処士の鄭方も同じく「大王には五つの誤りがあります。一つ、一時の平穏に慢心して危機への備えを怠り、度を超した宴楽に耽溺しています。二つ、宗室の関係を悪化させ、骨肉の争いを招いています。三つ、蛮夷の騒乱(李特)が続いているにも関わらず、大王は功業が成就したと過信して目を向けようともしません。四つ、先の戦乱による民衆の窮困の救済に、未だに着手していません。五つ、先の挙兵に際して功を挙げた者には賞を与えると約束したにも関わらず、未だに論功行賞がなされておりません」と、五つの過ちを列挙して司馬冏を諫めた。しかし司馬冏は「汝がいなければ過失に気づく事は無かった」と言って反省したが、やはり行動を改めることは無かった。 主簿の王豹は司馬冏に手紙を送り「今、河間王(司馬顒)が関右を、成都王(司馬穎)が旧魏(鄴)を、新野王(司馬歆)が長江・漢水を押さえ、強兵を擁しております。しかしながら、明公は一人京都(洛陽)で大権を握っており、これは危険な状態といえます。王侯をそれぞれの封国に帰らせると共に、周代に周公と召公が天下を分割統治した事に倣い、成都王を北州伯として鄴を治めさせ、明公は自ら南州伯として宛を治めるのです。そうして黄河で天下を南北に分け、その他の諸王は北州伯と南州伯の支持を仰ぎ、協力して天子を輔けるのが最良かと存じます」と進言すると、司馬冏はこの意見に賛成した。しかしこの話を知った司馬乂が、怒って司馬冏へ「小子が骨肉を離間させようとしている。処刑するべきだ」と述べたので、司馬冏は王豹を逮捕して不忠不義の罪で鞭殺してしまった。王豹は死ぬ前に「我が死んだら首を大司馬府の門に掲げるように。斉王が討たれるのを見届けよう」と言い放った。 司馬冏の驕恣は日に日にひどくなり、志を改める事は無かった。かつての戸曹掾の孫恵も上書して「大きな名声は長く維持する事は出来ず、大きな権力は長期間握る事は出来ません。大王は既に功を成しており、身を退く事を考えるべきです。皇族を推挙し、長沙・成都二王(司馬乂と司馬穎)に大任を任せるべきです」と諫めたが、司馬冏は同意しなかったので孫恵は病を理由に辞職した。司馬冏は曹攄へ「大権を手放して封国に帰るよう勧める者がいるが、汝はどう思うか」と聞くと、曹攄は「物事は頂点に達すると危機を招くといいます。大王が高位にあって危険を考慮し、職を去ることが出来るなら最善の選択といえるでしょう」と答えたが、司馬冏は賛同しなかった。張翰・顧栄らは禍を恐れて司馬冏から離れていった。潁川の処士の庾袞も「晋室は衰え、禍が訪れるだろう」と嘆き、妻子を連れて林慮山に隠遁した。
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