朝政を専断とは? わかりやすく解説

朝政を専断

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 07:25 UTC 版)

賈南風」の記事における「朝政を専断」の解説

司馬亮衛瓘司馬瑋らの粛清により、賈南風賈謐(妹の賈午の子)・郭彰一族と共に朝廷実権握り天下欲しいがままとした。賈南風賈謐協議の上張華侍中中書監に、裴頠侍中に、賈模散騎常侍侍中に、安南将軍中書令侍中任じ右僕射王戎と共に政務補佐させた。張華裴頠らは賢臣であったので、共に力を合わせて国政大い安定させる事に成功し賈南風張華に対してだけは尊敬の念保ったという。 賈南風自身執政関わる事はなく、専ら遊興耽る日々過ごした。その淫虐日々酷くなり、太医令程拠らとも密かに肉体関係を持つようになったまた、彼女は外で若い男を見つけると、竹箱に入れて宮中運びこみ、行為及んだこともあったという。秘密が漏れることを恐れ彼等多くは事を終えた後に殺害されたという。 賈南風は4人の女子生んだが、男子生まれなかった。皇太子司馬遹食肉処理業者の娘である淑妃謝玖の子であり、賈南風の子ではなかった。賈皇后賈午の夫の韓寿の子である韓慰祖(賈謐兄弟)を密かに宮中で養わせ、自らの子偽って司馬遹代えようとした、という話が『晋書』書かれている郭槐は娘に子が産まれないため、司馬遹実子のように育てるよう諭したが、賈南風は彼を忌み嫌っていた。また、郭槐韓寿の娘(賈謐・韓慰祖の姉妹で、司馬遹従姉妹)を太子妃に立てようとしたが、賈南風賈午と共に猛反対し、王衍の娘の王恵風司馬遹結婚させた。 賈南風親戚である賈模は禍が降りかかるのを恐れ裴頠張華謀議し、賈南風廃立して皇太子司馬遹の母である謝玖皇后立てよう考えた。だが、裴頠らは危険を恐れて結局実行に移す事は無かった。彼らは賈南風の母の郭槐の下へ赴くと、賈南風皇太子親しく接し宮中での行いを慎むように諫めて欲しいと頼みこんだ。賈模もまた幾度も賈南風諫言したが、賈南風はこれらの諫言聞き入れず逆に賈模自分誹謗していると考えて距離を置くようになり、賈模憂憤から病にかかり死去した296年夏、長安守っていた征西大将軍趙王司馬倫洛陽召喚されると彼は賈氏一派取り入るようになり、賈南風からも信任されるようになった。また299年6月賈謐皇太子司馬遹無礼な態度取った事を成都王司馬穎に咎められ逆上して賈南風司馬穎讒言した賈南風司馬穎平北将軍任じて鄴の鎮守命じ朝廷から追い出した

※この「朝政を専断」の解説は、「賈南風」の解説の一部です。
「朝政を専断」を含む「賈南風」の記事については、「賈南風」の概要を参照ください。


朝政を専断

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 13:45 UTC 版)

司馬冏」の記事における「朝政を専断」の解説

302年3月皇太孫司馬尚亡くなった恵帝は子の司馬遹と孫の司馬虨・司馬臧・司馬尚立て続け亡くしており、直系後継者がいなかったので、恵帝の弟である司馬穎後継ぎの有力候補になった。だが、長期に渡る専政目論んでいた司馬冏は、まだ8歳である清河王司馬覃恵帝の弟の司馬遐の子)を皇太子擁立し司馬冏太子太師となってその養育当たった司馬冏権力握ってからは奢侈な生活を送るようになり、酒食溺れて入朝を行わなくなり、自らの府に百官招いて政務行った皇帝批准を仰がずに事案決済行い独断三台尚書台・御史台謁者台)に命を出し官員任用免官も自らの判断行った殿中御史桓豹は上表行ったとき、司馬冏王府通さなかった事で罰を受けた。また邸宅屋敷建築改築繰り返し行われその様相は皇宮匹敵するほどの豪華さとなったという。また、北の五穀売買する市場から税を徴収し千秋門の壁を壊して西閤への道を作り後房には鐘や楽器懸け前庭には八佾舞踊隊列させた。こうした行いにより、民衆大い失望したといわれる侍中嵆紹上書し、易経古代堯・舜・禹の故事引き合い出して司馬冏諫めたが、司馬冏はこの意見理解示して自らの誤り認めたものの、行動改めことはなかった。また南陽処士の鄭方も同じく大王には五つ誤りあります一つ一時平穏に慢心して危機への備え怠り、度を超した宴楽耽溺してます。二つ宗室の関係を悪化させ、骨肉の争い招いてます。三つ蛮夷騒乱李特)が続いているにも関わらず大王功業成就した過信して目を向けようともしません。四つ先の戦乱による民衆窮困救済に、未だに着手していません。五つ先の挙兵に際して功を挙げた者には賞を与えると約束したにも関わらず未だに論功行賞なされておりません」と、五つ過ち列挙して司馬冏諫めた。しかし司馬冏は「汝がなければ過失気づく事は無かったと言って反省したが、やはり行動改めることは無かった主簿王豹司馬冏手紙送り「今、河間王(司馬顒)が関右を、成都王(司馬穎)が旧魏(鄴)を、新野王(司馬歆)が長江漢水押さえ強兵擁しておりますしかしながら明公一人京都洛陽)で大権握っており、これは危険な状態いえます王侯それぞれの封国帰らせると共に周代周公召公天下分割統治した事に倣い成都王を北州伯として鄴を治めさせ、明公は自ら南州伯として宛を治めるのです。そうして黄河天下南北分けその他の諸王北州伯と南州伯の支持仰ぎ協力して天子輔けるのが最良かと存じます」と進言すると、司馬冏はこの意見賛成した。しかしこの話を知った司馬乂が、怒って司馬冏へ「小子骨肉離間させようとしている。処刑するべきだ」と述べたので、司馬冏王豹逮捕して不忠不義の罪で鞭殺してしまった。王豹は死ぬ前に我が死んだら首を大司馬府の門に掲げるように。斉王討たれるのを見届けよう」と言い放った司馬冏驕恣日に日にひどくなり、志を改める事は無かった。かつての戸曹掾の孫恵上書して「大きな名声長く維持する事は出来ず大きな権力長期間握る事は出来ません。大王は既に功を成しており、身を退く事を考えるべきです。皇族推挙し長沙成都二王司馬乂司馬穎)に大任任せるべきです」と諫めたが、司馬冏同意しなかったので孫恵は病を理由辞職した司馬冏曹攄へ「大権手放して封国帰るよう勧める者がいるが、汝はどう思うか」と聞くと、曹攄は「物事頂点に達する危機を招くといいます大王高位にあって危険を考慮し、職を去ることが出来るなら最善選択といえるでしょう」と答えたが、司馬冏賛同しなかった。張翰顧栄らは禍を恐れて司馬冏から離れていった。潁川処士の庾袞も「晋室は衰え、禍が訪れるだろう」と嘆き妻子連れて林慮山隠遁した

※この「朝政を専断」の解説は、「司馬冏」の解説の一部です。
「朝政を専断」を含む「司馬冏」の記事については、「司馬冏」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「朝政を専断」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「朝政を専断」の関連用語

朝政を専断のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



朝政を専断のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの賈南風 (改訂履歴)、司馬冏 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS