賈謐
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賈 謐(か ひつ、? - 永康元年4月3日(300年5月7日))は、中国西晋時代の政治家。字は長深。元の名を韓謐という。父は散騎常侍韓寿。母は建国の功臣賈充の四女の賈午。恵帝の皇后であった賈南風の甥にあたり、その後ろ盾を得て権勢を振るったが、賈南風排除を掲げた趙王司馬倫の挙兵に際して兵士らにより殺害された。
- ^ 『晋書』巻40「充遂無胤嗣。及薨,槐輒以外孫韓謐爲黎民子,奉充後。」
- ^ 『晋書』巻40「咸等上書求改立嗣,事寢不報。槐遂表陳是充遺意。」
- ^ 石崇・欧陽建・潘岳・陸機・陸雲・繆世徴・杜斌・摯虞・諸葛銓・王粋・杜育・鄒捷・左思・崔基・劉瓌・和郁・周恢・牽秀・陳眕・郭彰・許猛・劉訥・劉輿・劉琨
- ^ 『晋書』巻40「渤海石崇歐陽建~山劉輿劉琨皆傅會於謐,號曰二十四友,其餘不得預焉。」
- ^ 『晋書』巻53 司馬遹伝「謐嘗與太子圍棋,爭道,成都王穎見而訶謐,謐意愈不平…」
- ^ 『晋書』巻59 司馬穎伝「穎在坐,厲聲呵謐曰:「皇太子國之儲君,賈謐何得無禮!」謐懼,由此出穎為平北將軍,鎮鄴。轉鎮北大將軍。」
- ^ 『晋書』巻56 江統伝「及太子廢,徙許昌,賈后諷有司不聽宮臣追送…」
- ^ 賈謐の一族である郭彰は本来であればクーデターで殺害されていた可能性が高いが、『晋書』の列伝に殺害記事がないことや諡号が残されていることから賈謐の殺害時には既に病死していたとみられる(福原、2012年、P248)。
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