賈氏の時代
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その後、恵帝は司馬亮と録尚書事衛瓘に朝政を主管するよう命じた。6月、賈南風は国政掌握を目論み、恵帝に詔を作らせて司馬瑋に司馬亮と衛瓘の逮捕を命じた。司馬瑋が両者を誅殺すると、恵帝は賈南風に強要され、殿中将軍王宮を宮殿外に派遣し、諸将に騶虞幡(停戦を命じる旗)を示して「楚王は偽詔を発した。その指揮下に入ることを禁ずる」と宣言した。これにより、賈南風は全ての罪を司馬瑋に擦り付けて処刑した。さらに、恵帝は衛瓘殺害の実行犯である栄晦一族を誅滅し、司馬亮の爵位を戻して諡号を「文成」と、衛瓘を蘭陵郡公に追封して諡号を「成」とした。これ以降、賈氏一派が朝政を掌握し、特に賈謐・郭彰の権勢は恵帝を凌ぐ程であった。ただ、彼らは政事については張華・裴頠・賈模といった賢臣に全て委ねてたので、この時期国政は大いに安定した。また295年には洪水に見舞われた荊州・揚州・兗州・豫州・青州・徐州に物資を振る舞い、298年には飢饉が発生した雍州の人々に穀物庫を解放する詔を発している。 299年12月、孫であり司馬遹の長子である司馬虨が重病に罹ると、司馬遹は王爵を与えるよう求めたが、恵帝は却下した。賈南風は司馬遹を陥れようと謀り、司馬遹に酒を飲ませて酩酊状態に陥らせ、恵帝と賈皇后を廃するという内容の文章を書かせ、恵帝に提出した。恵帝は群臣を集めると、黄門令董猛に司馬遹が書いたという文章を発表させ、司馬遹へ死を下賜すると宣言した。だが、重臣の張華と裴頠は偽作を疑って頑なに反対したので、恵帝はこれを認めて庶人に落とすのみに留めた。その後賈南風は黄門の一人に、太子と謀反を図ったと嘘の供述をさせて自首させた。恵帝はこの供述を公卿に示すと、東武公司馬澹に命じて兵千人で司馬遹を許昌宮に護送して幽閉させた。この時、恵帝は宮臣へ司馬遹の見送りを禁じたが、多くの官僚が涙を流しながら司馬遹を見送ったという。3月、賈南風は司馬遹を殺害した。 4月、趙王司馬倫は側近の孫秀・梁王司馬肜・斉王司馬冏と共に司馬遹の仇を討つ事を大義名分として政変を決行し、恵帝の詔と称して近衛軍を従わせた。華林県令駱休は司馬倫に内応し、恵帝を東堂に招き入れて詔を作らせ、賈謐を呼び寄せて誅殺した。さらに、宮中に兵が乱入して賈南風が捕らえられると、彼女は遠くにいる恵帝に向かって「陛下の妻が廃されようとしております。陛下もすぐに廃位に追い込まれることになりますぞ!」と叫んだという。賈南風を始め賈氏一族は尽く処断され、司馬倫に恨まれていた重臣の張華と裴頠も殺害された。乱が鎮まると、恵帝は司馬倫を相国に任じた。また、司馬遹の位を戻すと共に、尚書和郁と東宮の官員に命じて許昌からその亡骸を迎え入れさせた。また、司馬遹の冤罪を知りながら、保身を図って弁護しなかった王衍を罷免した。5月、司馬遹の子である司馬臧を皇太孫に立てた。6月、司馬遹を顕平陵に葬った。
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賈氏の時代
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291年、復職して給事黄門侍郎に任じられた。当時、恵帝の外戚である賈謐は皇帝を凌ぐ程の権勢を握っており、潘岳・杜斌を始めとした士大夫24名を集めて『金谷二十四友』と呼ばれる文学集団を形成していた。朝臣達はみな賈謐に媚び諂っており、嵆紹もまた彼より誘いを受けたが、嵆紹はこれを拒んで返答しなかった。
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