国政掌握
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/11 05:27 UTC 版)
「トマス (第2代ランカスター伯)」の記事における「国政掌握」の解説
1314年夏にはスコットランドにおけるイングランドの拠点スターリングが包囲されたのを受けて、エドワード2世自ら援軍を率いてスコットランドへ出征したが、バノックバーンの戦いでスコットランド軍に惨敗した。これはエドワード2世の権威を一層低下させた。この戦いにはペンブルック伯が従軍していたが、彼との不仲からランカスター伯は参加しなかった。そのため政府の指導権はランカスター伯が握るところとなった。 ランカスター伯の政策は先の改革勅令の遵守と遂行を基本としたが、積極的な国政主導は行わなかったので国王や他の諸侯との疎隔が進んだ。妻のアリスが第7代サリー伯ジョン・ド・ワーレン(英語版)の元に走って彼と対立を深めたのを機にランカスター伯の孤立は深まった。 1316年の議会で国王から公式に評議会首席の地位を与えられたが、次第にペンブルック伯ら「中間派」に実権を浸食されていくようになった。「中間派」の台頭で国王も権力を回復させはじめ、その寵臣ディスペンサー父子が宮廷内で台頭した。ランカスター伯も1320年以降にはディスペンサー父子との対決に重点を移すようになった。 1321年に国王にディスペンサー父子追放を認めさせたが、国王はその翌年にもディスペンサー父子を呼び戻した。これに激怒したランカスター伯は国王・ディスペンサー父子との徹底対決を決意した。
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