国政政党に揺れる革新首長
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「革新自治体」の記事における「国政政党に揺れる革新首長」の解説
国政では1969年の第32回衆議院議員総選挙で社会党が大敗し、左右両派の路線闘争が始まる。江田は中道の公明党、民社党と連携する社公民路線を主張するが委員長選挙で協会派の成田知巳に敗れる。1971年の第9回参議院議員通常選挙では社公民路線の名残から社会党が公民両党から選挙協力を受けて議席を伸ばすが、社会党から両党に対しての配慮は示されなかった。翌年の第33回衆議院議員総選挙は社共両党が躍進し、公民両党は低迷した。 1973年には田中内閣の積極財政に起因するハイパーインフレ(狂乱物価)が発生する。経済学者の美濃部の下には都民から物価高に対する陳情が殺到したが、都の立場ではインフレに対して対処の仕様がなく、食糧の産地買い付けという対症療法に留まった。国民の間では左派政党に対する期待が高まり、1974年の第10回参議院議員通常選挙では共産党が躍進、社会党では左派の全野党共闘論が方針となる。 しかし、共産党の躍進は社会党の疑念を生み、特に共産党が強い地域では両党の対立を生んだ。1974年の京都府知事選では、蜷川の共産党偏重に対する反発から大橋和孝参議院議員が出馬、自民党も候補を立てずに一騎打ちとなり、僅差で蜷川が勝利した。 一方、美濃部は都の財政問題に苦しんでおり、1974年の法人税引き上げに次いで、東京都議会において「財政戦争」を宣言、地方財政制度の改革を政府に対して要求した。しかしこれは自治省による猛反発(後述)を招き、更に財政問題は都民にとっては馴染みのないテーマであったために輿論の支持が広がらず、已む無く職員のベアを翌年度予算の人件費から捻出することで対応するに追い込まれる。 1975年の都知事選では、共産党が同和政策を解同よりであると非難、不支持を通知し、美濃部も一旦は出馬辞退を宣言する。しかし自民党がタカ派の石原慎太郎を擁立すると支持者の間からの要望に応えて翻意、民社党が独自候補を立てたのに助けられて三選したものの、得票数は前回から落とした。また、この年の統一地方選挙では革新系の知事の多くが落選し、革新自治体は退潮となった。美濃部は首都圏革新自治体連合を結成したが、上手く機能しなかった。各首長はそれぞれ個別の政治的難題を抱えており、単一の組織の中で連携を図ることが困難であったためである。
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