国政壟断と大獄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 07:20 UTC 版)
開元26年(738年)、河西節度使を兼ねる。しかし、前年12月に武恵妃が死んだため、玄宗の心は揺らいでいた。李林甫は李瑁を太子に立てることを勧めたが、高力士が李璵を太子にすることを勧めたため、李璵が太子となる。同年、官制に関する官選書「大唐六典」が完成し、注の編集者となっている。 開元27年(739年)、吏部尚書を兼ね文武官僚の人事権を握ることになる。その人事は格式を守った年功序列であり、才能があっても特別の昇進をすることはなかった。しかし、ずるがしこく立ち回れるものは格別の昇進をしたといわれる。また、牛仙客とはかり、近隣の税を上げて物資を関中に集め、数年で食糧は豊かとなった。ために、玄宗が洛陽巡幸をしないですむようになったといわれる。 天宝元年(742年)には右相となり、その後、玄宗の気にいった人物を遠ざけることに腐心し、盧絢・厳挺之・斉澣を洛陽に追いやり、裴寛を左遷させる。 天宝三載(744年)、玄宗は高力士に「長安を出ずに十年近く、何事も無かった。李林甫に政治の全てを委ねようと思うが」と問い、反対した高力士が玄宗の怒りを買うほど、信頼を受けていた。 天宝四載(745年)、刑部尚書の裴敦復を左遷。楊貴妃のまたいとこの楊釗や王鉷・吉温・羅希奭などを腹心として使い始める。天宝五載(746年)には、陳希烈が柔和で扱いやすいので宰相にし、全て李林甫が自邸で国事を決することとなった。 同年から、翌、天宝六載(747年)にかけて、李林甫の謀略により、皇太子李璵の周辺の人物や李林甫が嫌っていた人物を中心が数多く陥れられた。杜有隣らは処刑され、韋堅・皇甫惟明・李邕・裴敦復らは左遷させられた上で殺され、李適之・王琚が自殺に追い込まれた。裴寛・李斉物・王忠嗣らも左遷させられている。李林甫のために働いた楊慎矜も玄宗の意にかなってきたため、冤罪により自殺に追い込まれた。その後も皇太子の引きずりおろしに腐心し、楊釗らに皇太子に関係する人物を弾劾させ、罪をかぶせられた家は数百家にものぼった。 天下の貢ぎ物全てが李林甫に与えられ、玄宗が朝廷に出ない日は、官僚は全て李林甫の自邸に集まり、役所には陳希烈がただ一人でいる状態となったといわれる。また、玄宗が人材を求めて、一芸以上に通じるものを集めようとしたが、在野の士が反対勢力になるのを怖れ、厳しく試験するように建言した。そのため、及第するものは一人もいなかった。李林甫は在野に遺賢がいないことを祝賀した。
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