太子となる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/31 22:40 UTC 版)
319年、慕容皝の次男として生まれた。 335年7月、世子に立てられた。 336年9月、慕容皝の命により段部へ侵攻して諸城を攻撃すると、大勝を収めてから帰還した。 337年10月、慕容皝が燕王に即くと(前燕の成立)、11月に慕容儁は王太子に立てられた。 341年7月、東晋から使者が到来すると、慕容皝は燕王に封じられてその地位を正式なものとし、慕容儁もまた仮節・安北将軍・東夷校尉・左賢王に任じられ、多数の軍資・器械を下賜された。 343年8月、前軍師慕容評と共に代国へ侵攻したが、代王拓跋什翼犍はその民を従えて別の地へ避難したので、慕容儁らは戦うことなく引き返した。 344年、東晋朝廷より使持節・鎮軍将軍に任じられた。 346年1月、度遼将軍慕容恪・折衝将軍慕輿根と共に騎兵1万7千を率い、夫余の討伐に向かった。慕容儁は陣中で指示を行い、慕容恪・慕輿根が前線で鋒を振るった。この戦いで前燕軍は夫余を滅ぼし、夫余の玄王と部落5万人余りを捕らえてから帰還した。
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