太子信仰への批判と再評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 00:52 UTC 版)
「太子信仰」の記事における「太子信仰への批判と再評価」の解説
江戸時代になると、朱子学や国学によって仏教は批判を受ける。そうした中で、太子は「清らかな日本に外国の野蛮な教えである仏教を導入した」人物と位置付けられ、林羅山や平田篤胤などの知識人によって批判の対象となり、さらに太子伝について実証的な検討と批判が行われた。平田は『出定笑語』に「仏を贔屓する一部の人が、人を惑わす事を承知で偽りの太子伝を創作した」と指摘している。 一方で庶民の間では、変わらず太子への信仰が続いた。江戸時代の太子関連の著述は100余りに上り、特に『伝暦』を継承したした『聖徳太子伝』(寛文刊本・1666年)は、近世後期に至るまで後印本が繰り返し出版されて多くの人に読まれた。また、太子は近松門左衛門の『聖徳太子絵伝記』など浄瑠璃や黄表紙などの庶民文化の題材となった。こうした太子信仰を背景に、太子との関係を説く神社もこの頃に現れ、法隆寺は浄財を集めるために出開帳を行った。 明治になると、太子は教科書等で崇峻天皇を殺害した蘇我馬子の一味として扱われ、また廃仏毀釈の影響もあって扱いは低かった。しかし明治後期になると、開国して外国と対峙していた日本は自らのアイデンティティを歴史と文化の中に求めるようになり、そうした心象に応える人物として太子が注目されるようになる。これは『書紀』の再評価と共に、『隋書』に記される「日出処ノ天子」の国書の著者として太子が位置付けられた事に依っていると考えられる。また、アーネスト・フェノロサが日本文化の軽視に対して警鐘を鳴らし法隆寺を高く評価した事も影響した。なお、フェノロサの評価をきっかけに、法隆寺を中核に聖徳太子奉賛会が設立され、太子信仰の中心地は四天王寺から法隆寺へと移行してゆく。こうした背景から、学校教育で偉人として「聖徳太子」の称号が定着させられ、高額紙幣の図柄として唐本御影の太子肖像が採用されるなど、太子信仰は近代的かつナショナリズムを高揚するように変化し定着していく。こうした社会で重視されたのが憲法十七条である。憲法十七条は大日本帝国憲法と結びつけられ、日本は東洋唯一の立憲国家として位置づけられた。さらに「和」の精神は臣民間の和と解され、国民が一丸となって戦争を戦い抜くために強調されるようになっていった。
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