国政介入、失寵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/30 23:36 UTC 版)
「コンスタンティア・フォン・コーゼル」の記事における「国政介入、失寵」の解説
アンナ・コンスタンティアは、宮廷の内情を把握すると、だんだんと政治に干渉するようになっていった。特に、恩顧関係にあった皇帝カール6世の思惑通り、アウグスト強王のポーランド王位保持・奪還のための野心的な行動を強めさせること、その無謀な動きに反対するベテランの宰相ヤーコプ・ハインリヒ・フォン・フレミング(ドイツ語版)らザクセンの大半の政治家・官僚たちの動きを抑圧することが、彼女の目標となった。ことを上手く運ぶために、彼女はザクセンの枢密院会議の議事録の写しをザクセン駐在の皇帝使節に手渡していた。皇帝側は協力の見返りにアンナ・コンスタンティアにさらに高位の「ゲルリッツ帝国女侯(Reichsfürstin von Görlitz)」の爵位を約束していた(ゲルリッツ女侯の紋章は既に準備されており、現在もザクセン州立公文書館に保存されている)。アウグスト強王は、大北方戦争でスウェーデンに敗北したために放棄したカトリック国ポーランドの王位を取り戻すために、故郷のプロテスタント邦ザクセンで戦っていた。アウグストは王位奪還という全くの政治的見地からカトリックに改宗した。熱心なプロテスタント信者だったアンナ・コンスタンティアは、野心から来る王のこの決断に賛成できなかった。彼女はアウグスト強王に対し、ポーランド王を次々すげ替えることしか頭にないポーランドの諸侯家と誼を結ぶことの愚を再三警告した。その幅広い知見と政治的経験から、アンナ・コンスタンティアは、アウグストの追求する政策に訪れる破局を予見していた。王は、自分の政治的分析力よりも自分の妾の唱える現実主義的な情勢分析の方が高い評価を得ていることに、気分を害した。アウグストはポーランド王冠を自分のものにすることで、帝国における権力と重要性をザクセン選帝侯領にもたらし、急速に力を付けていた隣国プロイセンに対抗しようとしていた。 復位を認めてくれたポーランド貴族層に対する譲歩の証として、アウグストはポーランド人カトリック信徒の中から新しい妾を選ぶことを決めた。王は複数の妾候補の中からマリアンナ・デーンホフ伯爵夫人を選んだ。ポーランド貴族に対して行わざるを得ないこうした譲歩は、アウグストが取り返した王座の権威を傷つけるものであった。次のアウグスト3世の代についにザクセンはポーランド王位を失い、彼ら親子が追求した伝統的な選挙王制を世襲制に変更しようという試みは失敗に終わることになる。ポーランドはその後プロイセン、ロシアそしてオーストリアの3か国によって分割されて主権国家の地位を失い、2世紀間地図から姿を消すことになる。 アンナ・コンスタンティアの新しい妾に対する嫉妬、そして彼女を追い落とそうとする試みにアウグストは嫌気がさし、これがきっかけで王はアンナ・コンスタンティアから完全に離別することを決めた。円満な離別のための王の全ての働きかけはコーゼル伯爵夫人の烈しい拒絶に遭い、王は強硬手段を採るほかなくなった。1713年アウグストはアンナ・コンスタンティアをドレスデン宮廷(ドイツ語版)から追放し、ピルニッツ城(ドイツ語版)への蟄居を命じた。次いで王はピルニッツ城を明け渡しツァーベルティッツ(ドイツ語版)の小規模な城館に移るよう命じたが、アンナ・コンスタンティアは頑として応じなかった。
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