国政主導
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 14:12 UTC 版)
「イザベラ・オブ・フランス」の記事における「国政主導」の解説
議会はランカスター伯を国王警護役に指名したが、実権はイザベラとその愛人ロジャー・モーティマーが握った。1328年1月にヨーク・ミンスターで挙行されたエドワード3世とフィリッパの結婚式もイザベラが取り仕切った。 スコットランド王ロバート1世は少年王の即位を好機とみてイングランド北部への侵攻を開始した。軍資金の確保に苦しむイザベラとモーティマーは、戦争継続は不可能と判断してロバート1世に講和を懇願し、エディンバラ=ノーサンプトン条約(英語版)を締結した。これによりイングランドはスコットランドが独立国であることとロバート1世がスコットランド王であることを承認した。さらにエドワード3世の妹ジョーンとロバート1世の長男デイヴィッド(のちのデイヴィッド2世)の結婚が取り決められた。しかしこの講和は国内的な合意を得ないまま進められた物であったため、「屈辱外交」として国内の強い反発を招いた。 イザベラの愛人であるモーティマーはイザベラの寵愛を盾にウェールズや辺境地域で巨大な勢力を築き、1328年10月の議会でウェールズ辺境伯(マーチ伯)の称号を受けた。モーティマーの急速な昇進はランカスター伯、初代ノーフォーク伯トマス・オブ・ブラザートン(エドワード1世と後妻マーガレットの間の長男)、初代ケント伯エドムンド・オブ・ウッドストック(英語版)(同次男)ら王族に連なる諸侯の反発を招き、イザベラやモーティマーら宮廷派と、ランカスター伯らランカスター派の対立が顕在化した。 やがてランカスター派は宮廷派に抑え込まれ、1330年春の議会ではケント伯が反逆罪で公開裁判にかけられた末に処刑された。しかしこの時18歳になっていたエドワード3世は、母とモーティマーの独断でのケント伯処刑に憤慨していた。
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