賈氏一派粛清
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 14:14 UTC 版)
かくして孫秀は司馬雅らの謀反をわざと賈南風へ流し、さらに司馬倫は孫秀と共に賈謐らへ「急ぎ太子を除いて衆望を絶つべきかと」を進言した。賈謐がこれを賈南風に告げると、賈南風は黄門孫慮に命じて司馬遹を殺害させた。司馬遹の死を見届けると、司馬倫は孫秀と共に賈氏一派討伐を決行しようとしたが、司馬雅・許超は司馬遹殺害の一件で怖気づいてしまい応じなかった。そのため、司馬倫は右衛佽飛督閭和・梁王司馬肜・斉王司馬冏らに計画を伝えると、彼らはこれに協力する事を約束し、4月3日の深夜決行と定められた。 4月3日、司馬倫は孫秀・閭和・司馬肜・司馬冏と共に政変を決行し、皇帝の詔を偽造して近衛軍を掌握し宮中に侵入した。賈謐は異変に気付き逃げようとしたが、兵士に囲まれてその場で殺された。さらに賈南風を捕らえて庶民に落とし、建始殿に幽閉した。賈南風の取り巻きであった趙粲・賈午らも逮捕され、暴室で拷問を受けた。司馬倫は尚書に賈氏一派を尽く捕らえるよう命じたが、尚書らは皆司馬倫の持つ詔を疑い、尚書郎師景は恵帝の直筆による詔を示すよう求めたので、司馬倫等は見せしめとして師景を殺し、群臣に従うよう強要した。そして賈謐など賈一族を皆殺しにすると共に、孫秀と謀議して朝廷内で声望がある者や、かねてより怨みがある者を除くことに決め、張華・裴頠・解系・解結ら多くの政治中枢の役人達を逮捕し、三族まで皆殺しにした。 4日、司馬倫は端門(宮門正南門)を制圧すると、尚書和郁に命じて賈南風を金墉城に監禁させた。同時に側近の劉振・董猛・孫慮・程拠らが処刑され、張華・裴頠の取り巻きとみなされた者多数が罷免された。9日、司馬倫は偽の詔を発し、尚書劉弘に金屑酒(金粉入りの毒酒)を金墉城に届けさせ、賈南風にこの酒を飲ませて自害させた。こうして賈氏一族の時代は終わりを告げた。
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