賈充を継ぐ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 10:43 UTC 版)
郭縕 李豊 郭淮 郭配 郭彰 李婉 賈充 郭槐 司馬炎 司馬攸 賈荃 賈黎民 賈午 韓寿 司馬衷 賈南風 0韓謐(賈謐) 魏の司徒韓曁の玄孫であり、当初は韓姓であった。しかし母方の祖父である賈充が282年に死去すると、彼には後継ぎとなる男子がいなかったため、賈充の妻の郭槐は外孫の韓謐を賈黎民(賈充と郭槐の子。既に死去している)の養子に迎え、賈充の後継ぎに立てた。これは礼制に反しているとして多くの者が反対したが、郭槐は賈充の遺志であると司馬炎に上奏したので、賈充の功績に免じて特例として後継者として認められた。そのため、韓謐は姓を改称して賈謐となった。こうして賈謐は朝廷に取り立てられ、散騎常侍・後軍将軍を歴任した。 290年4月、司馬炎が死去すると、司馬衷(恵帝)が即位し、叔母の賈南風が皇后に立てられた。これにより、291年3月、賈南風は当時権勢を振るっていた司馬炎の外戚楊駿を妬み、宦官董猛・孟観・李肇や楚王司馬瑋と結託して政変を起こすと、楊駿は殺害されてその三族及び側近の者は尽く捕らえられた。これ以降、賈氏一族は大きく躍進し、賈謐は国政の中枢に参画するようになった。賈謐は郭彰(賈謐の曾祖父の兄弟にあたる)と共にその権勢が盛んになり、多くの賓客が彼の下を訪ねるようになった。 賈謐は士大夫とも積極的に交流を深め、『金谷二十四友』という文学集団を形成した。賈謐二十四友には陸機や左思・劉琨なども含まれていた。 291年6月、賈南風は国政を掌握していた汝南王司馬亮と録尚書事衛瓘を排斥するため、楚王司馬瑋に密詔を与えて彼らを殺害させた。司馬瑋配下の岐盛はこれに乗じて賈謐・郭彰を誅殺して権力を掌握するよう勧めたが、司馬瑋は応じなかった。賈南風もまた司馬瑋が権勢を握る事を危惧していたので、司馬瑋が独断で詔書を偽造して司馬亮と衛瓘を殺害したと宣言し、司馬瑋を捕らえて処刑した。
※この「賈充を継ぐ」の解説は、「賈謐」の解説の一部です。
「賈充を継ぐ」を含む「賈謐」の記事については、「賈謐」の概要を参照ください。
- 賈充を継ぐのページへのリンク