賈南風との対立と最期とは? わかりやすく解説

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賈南風との対立と最期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 02:25 UTC 版)

衛瓘」の記事における「賈南風との対立と最期」の解説

290年4月司馬炎死去すると、太子司馬衷新たな皇帝即位した291年3月楊駿誅殺されると、衛瓘復職して録尚書事任じられ汝南王司馬亮と共に朝政補佐する事となった。衛瓘司馬亮は、先の楊駿誅殺加担した楚王司馬瑋横暴残虐な性格忌み嫌っており、司馬瑋から兵権を奪うために北軍中候地位解任したり、諸王対す封国への帰還命じたりといった手を講じたが、いずれも効果はなく司馬瑋らの怒り増幅させるだけに終わった。さらに衛瓘は元楊駿側近ありながら司馬瑋元に鞍替えして楊駿誅殺加担した岐盛という人物を、その節操のなさから忌み嫌っていたが、これを恐れた岐盛は同じく司馬瑋配下公孫宏と謀り皇太子時代司馬衷を巡る一件確執のあった賈南風に「司馬亮衛瓘皇帝廃立企んでいる」との情報流した。これを知った賈南風は、司馬亮衛瓘による政権掌握への不満もあり、司馬瑋結び付いて司馬亮衛瓘排除決め事となった。 6月賈南風恵帝に詔を作らせ、司馬瑋へ「太宰司馬亮)と太保衛瓘)は伊尹霍光模倣して皇帝廃立企んでいる。王(司馬瑋)は淮南王司馬允)・長沙王司馬乂)・成都王(司馬穎)に命じて諸々宮門制圧させ、司馬亮衛瓘の官を免じるように」と告げた司馬瑋は自ら統括している北軍動かし司馬亮衛瓘討伐掲げて決起すると、公孫宏と肇に司馬亮府を包囲させ、侍中清河王司馬遐には衛瓘逮捕命じた衛瓘邸が司馬遐包囲されると、衛瓘側近司馬遐が詔を偽造したではないか疑い上書して詔の真偽確認するべきだ進言したが、衛瓘従わず逮捕受け入れた。かつて衛瓘司空となった時、帳下督栄晦は罪を侵して罰せられ、司空府から追放された事があった。その栄晦はこの時司馬遐軍に従っており、私怨を晴らすために司馬遐制止無視して衛瓘と子の衛恒・衛嶽・衛裔と孫ら9人を殺害した司馬亮もまた捕らえられ誅殺された。ただ衛恒の二子である衛璪・衛玠は、当時医者の家にいたので災禍免れた太保主簿劉繇らは危険を承知衛瓘死体収容し、これを手厚く葬ったという。 賈南風司馬瑋威権が集まる事を恐れ独断詔書偽造し司馬亮衛瓘殺害した宣言して誅殺した。その後衛瓘の娘は朝廷上書して衛瓘の名誉回復訴えると、劉繇らもまたこれに同調して衛瓘冤罪と栄晦の処罰を上言した。これらの要求認められ衛瓘蘭陵郡公に追封され、食邑三千加増され、成と諡され、仮黄鉞贈られた。また、栄晦は一族もろとも誅殺された。

※この「賈南風との対立と最期」の解説は、「衛瓘」の解説の一部です。
「賈南風との対立と最期」を含む「衛瓘」の記事については、「衛瓘」の概要を参照ください。

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