政権掌握へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 22:19 UTC 版)
中平6年(189年)に霊帝が没すると、少帝の外戚である大将軍の何進は司隷校尉の袁紹らと謀議を重ね、十常侍ら宦官を一掃しようとしたが、妹の何太后らに反対されていた。そこで何進は董卓ら地方の軍事指揮官を召しだし何太后への圧力としようとした。董卓は何進の命令に応じて首都雒陽(洛陽)に軍勢を進めた。 宦官の反撃に遭い何進が殺され、袁紹らが宮中に突入し宦官殺害を実行する中、宦官の一人中常侍の段珪が少帝とその弟の陳留王劉協を連れ去る事件が起きた。段珪らは小平津まで逃げていたが、軍勢を率いた董卓に追撃され自殺、董卓は徒歩でさまよっていた少帝と陳留王 を救出して洛陽に帰還した。 董卓は二人と会話をしながら帰路についたが、この時劉弁は満足な会話さえ十分にできなかったのに対して、陳留王は乱の経緯など一連の事情を滞りなく話して見せたことから、陳留王の方が賢いと思ったという(『献帝紀』)。 董卓が洛陽に入った時は3000ほどの兵力しかなかったので、殺害された何進や何苗 の軍勢を吸収して軍事力で政権を手中におさめた。また、同じく何進に呼び寄せられた執金吾の丁原の軍士を取り込むべく、丁原の暗殺を企てた。丁原の部下には武勇の士として名高い呂布がおり、暗殺は失敗してしまうが、その呂布がまもなく董卓の誘いに乗り、丁原を殺害して董卓に帰順し、董卓は丁原の兵を吸収した。 洛陽で軍事力を持つ唯一の存在となった董卓は兵力を背景に袁紹らを封じ込め、天候不順を理由に司空の劉弘を免職させ、後任の司空となった。そして少帝の生母である何太后を脅して少帝を廃し弘農王とし、陳留王を皇帝とした(献帝)。その直後、何太后が霊帝の母である董太后を圧迫したことを問題にし、権力を剥奪した。董卓は何太后を永安宮に幽閉し、まもなく殺害した。
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