政権末期と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 14:21 UTC 版)
「ガマール・アブドゥル=ナーセル」の記事における「政権末期と死」の解説
1967年の政権危機を乗り越えたナセルは内閣改造を行い、1962年以来の首相兼任によって政権の求心力を高めようとした。第三次中東戦争の敗北によって壊滅状態となった軍の再建を進め、機能不全に陥っていた官僚機構の是正に務めた。 ナセルはソ連、チェコスロバキアといった東側諸国の協力を得て1970年にアスワン・ハイ・ダムの完成を見たが、国内ではスエズ運河の収入が無くなりインフレが進行した。同年、ヨルダン内戦の仲裁や北イエメン内戦への軍事介入を行うなど多忙を極める最中、ナセルはクウェート首長サバーハ3世を空港に送った直後、心臓発作を起こした。ただちに自宅に運ばれ主治医の手当てを受けるも、午後6時ごろに52歳で急死した。 ナセルの死因は、長らく患っていた糖尿病による動脈硬化症と静脈瘤の合併症であった。ナセルは家族ともどもヘビースモーカーで、2人の兄が同様の死因で亡くなっているほか、ナセルも1966年と69年にも心臓発作を起こしていた。 ナセルの死がアラブ諸国にもたらした衝撃は大きく、10月1日に行われたナセルの葬儀では500万の葬列者が詰めかけた。国賓ではファイサルを除くアラブ諸国の元首・首脳全員が参加した。フセイン1世やヤーセル・アラファトも人目をはばからず号泣し、ナセルを敬愛していたムアンマル・アッ=カダフィも、ショックのあまり2度も失神している。非アラブ圏ではソ連のアレクセイ・コスイギン首相とフランスのジャック・シャバン=デルマス首相が参加した。ナセルの葬儀の様子は国内外でも大きく取り上げられ、レバノンの首都ベイルートでは支持者が高級車を自ら焼くなどの混乱が起こった。 後任として士官学校以来のナセルの盟友で副大統領のサダトが就任し、ナセル体制にかわる経済の自由化を進めることになる。なお、著書『革命の哲学』は日本でも西野照太郎の手によって翻訳された(平凡社版1956年、角川文庫版1971年)。
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