政権獲得と自主管理社会主義
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「ユーゴスラビア共産主義者同盟」の記事における「政権獲得と自主管理社会主義」の解説
詳細は「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」を参照 1945年11月に憲法制定議会選挙が行なわれ、民主党などがボイコットを表明する中、KPJを中心とする人民戦線が91%の得票を獲得、これを受けて新議会は王政の廃止とユーゴスラビア連邦人民共和国(1963年、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国に改称)の成立を宣言し、チトーが首相兼国防相となった。 1948年、KPJは第5回党大会を開催し、ソ連追従政策の取り消しと自主管理社会主義と呼ばれる独自の路線を採択した。これが東ヨーロッパ諸国を衛星国にしようとするスターリンの逆鱗に触れ、同年KPJはコミンフォルムから追放された。翌1949年には、ユーゴスラビアはコメコンからも除名されている。 自主管理社会主義とは、チトーがパルチザン闘争時代の同志であるミロバン・ジラスの影響から、労働者による経済自主管理システムの導入、党と国家の分権化などを進めたユーゴスラビア独自の社会主義政策で、ソ連を中心とする他の社会主義諸国からは「社会主義とかけ離れている」と非難されたが、西側諸国からはもっぱら好意的に受け止められた。1952年、KPJはユーゴスラビア共産主義者同盟(SKJ)と改称した。その後は党内外の反政府勢力を抑えながら、自主管理社会主義に基づくチトーの個人指導体制が1980年まで続くこととなる。 機構としては、ユーゴスラビアを構成する6つの共和国、すなわちセルビア、モンテネグロ、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニアのそれぞれに共産主義者同盟が置かれ、それらのまとめ役としてユーゴスラビア共産主義者同盟というトップ機関があるというものであった。
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