政権獲得後
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「ベニート・ムッソリーニ」の記事における「政権獲得後」の解説
1924年、子供たちへの洗礼を行わせて教会との和解を国民に印象付け、翌年には10年前に無宗教の結婚式を行ったラケーレと教会での結婚式典を行うパフォーマンスを見せた。このような路線は最終的に1929年2月11日のラテラノ条約の締結に至る。教会との間で結ばれたラテラノ条約でカトリック教会は新たな教皇領としてバチカン市国を与えられ、正式にローマ・カトリックがイタリアの国教とされた。中絶制度・教会への課税なども合わせて廃止され、フリーメイソンの活動も禁止された。当時の教皇ピウス11世はムッソリーニを信心深いキリスト教徒と賞賛し、「イタリアは再び神の土地へと戻った」と宣言している。 だが教会に対する懐柔策を進めながらも本心としての侮蔑は持ち続けており、和解の直後に「教会は国の下位に置かれるべきだ」と発言している。またコンコルダートから7年間の間に無数のキリスト教系新聞が発禁処分とされた。教会もムッソリーニの表面的な懐柔に不満を抱き始め、破門処分を検討したとも伝えられている。1932年にピウス11世とムッソリーニの会談が行われて関係修復が図られたが、ムッソリーニはカトリック教会に対する賞賛などの社交辞令を決して報道させなかった。彼はファシストはキリスト教に敬意を持っていると世辞を述べ、教皇は「彼は摂理の傍に居る」と賞賛した。 1938年、第二次世界大戦を前にしてムッソリーニは反カトリック教会主義を露にするようになった。彼は宗教の中でも特にカトリックが最も堕落した宗教であり、「それに比べればイスラム教はまだ合理的で優れた部分がある」と閣僚に語っている。また「教会はイタリアの癌細胞であり、いずれは引き摺り出さねばならない」とも語っていたという。だがこれらの発言は非公式な物に留まり、公ではこうした発言は控え続けていた。晩年となる1943年からキリスト教についての肯定的発言が増え始め、キリストの殉死を引き合いに出した演説も行っている。とはいえ基本的には無神論者のままであったと戦後に妻のラケーレが証言している。 皮肉にもムッソリーニを処刑した共産主義者たちは同じ無神論者であったため、彼の望み通り無宗教様式で遺体を埋葬した。1957年、ムッソリーニの改葬式が行われた際にはカトリック教会で儀式が行われた。
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政権獲得後
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ナチ党の政権獲得後、1933年3月の国会選挙でヒトラーと同じオーバーバイエルン=シュヴァーベンから国会議員に当選した。同年12月12日から国会第二副議長(議長はヘルマン・ゲーリング、副議長はハンス・ケルル)に任じられた。またバイエルン州議会議長にも就任し、州議会が廃止される1934年まで務めた。州国家代理官フランツ・フォン・エップの計らいで州経済相に任じられたが、1935年にはアドルフ・ヴァーグナーと対立して失脚した。 1936年、全国観光委員会総裁に任命されたが、既に民間の観光団体は全て統制され、「全国観光連盟に関する法律」によってゲッベルス率いる国民啓蒙・宣伝省の管轄下におかれていた。1937年1月10日には、ヒトラー、ゲッベルス、オットー・ディートリヒ、フリッツ・トート、アルベルト・シュペーアと共に「観光の家(Haus des Fremdenverkehrs)」の模型を観賞している。1939年から国民啓蒙・宣伝省の第3次官(観光旅行局担当)に任命され、各地の観光団体を統率した。第二次世界大戦勃発後の最初の数年間も観光事業は行われ、観光旅行局が閉鎖される1944年9月まで、エッサーはナチズムに基づく観光政策を推し進めた。 1939年、ヒトラーは自身の50歳の誕生日にエッサーの妻に宛てたバースデーカードで「エッサーがならず者であることは分かっている、だが彼が有益である限り私は我慢するつもりだ」と記している。また、毒々しい反ユダヤ主義の弁舌も衰えておらず、1939年には『ユダヤ人は世界のペスト菌(Die jüdische Weltpest)』を出版した。 一方で、政権の教育政策には批判的な発言を行っている。ヒトラーの愛人であるエーファ・ブラウンが1944年に書いた日記(ドイツ語版)によると、ミュンヘン大管区指導者のパウル・ギースラー邸にて『我が闘争』の全文を暗記したという少年を前にエッサーは「この子ならサーカスで食っていける。戦争に勝った後ならね」と腐し、「いくらヒトラーユーゲントを育てても、『我が闘争』を暗記するだけじゃね。ゲーテのことも知らない若者では…」、「もし我々があんな子ばかり求めていたら、必ずや近い将来、強靭な精神と柔軟な思考を持つ自立心の強い人間はいなくなる。他人の意見や考えを受け売りする「オウム人間」ばかりになってしまう」などと語ったという。
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