政権獲得後の演説
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「アドルフ・ヒトラーの演説一覧」の記事における「政権獲得後の演説」の解説
ドイツ国首相に就任した翌日の2月1日、ヒトラーはラジオで首相としての施政方針演説を行った。しかし聴衆のないラジオ演説に戸惑ったヒトラーは、ほとんど原稿を読み上げるだけであった。翌日には再録音が行われたが、ヒトラーは「今でもまだ満足できていない」とラジオ演説には課題が残ることを述べている。しかし国民啓蒙・宣伝省大臣となったヨーゼフ・ゲッベルスは「ラジオ放送は最も近代的で最も重要な大衆感化の手段」であると考えており、76ライヒスマルクという破格の値段でラジオ受信機を販売させた。こうしてラジオ放送で総統演説が頻繁に流されるようになった。ラジオ放送の聴取は国民に義務付けられ、どこでどのようにラジオを聞いたかの報告が求められたが、亡命ドイツ社会民主党の『ドイツ通信(ドイツ語版)』によれば多くの人々が繰り返される演説に飽き飽きしており、ほとんど放送を聞かなかった。このこともあって1934年以降は演説放送回数は半減している。 それでも1936年3月7日のラインラント進駐を説明するヒトラー演説は高い評価を受け、支持に消極的な人にも感銘を与えたと『ドイツ通信』で報告されている。ただし動員されない演説に自ら集まる国民は少数であり、3月14日のテレージエン緑地で行われたヒトラー演説でも、聞くものはごくわずかであったという。1936年5月には映像収録設備と関係するスタッフを集め、ドイツ全国どこでも30万人規模の大会が開ける部隊、ドイツ全国自動車キャラバン隊(ドイツ語: Reichsautozug Deutschland)が創設され、ヒトラーをはじめとする演説者の可動性が飛躍的に高まった。 第二次世界大戦でドイツが苦戦に追い込まれると、ヒトラーの演説の効果はさらに低下していった。親衛隊による「世情報告(ドイツ語版)」では、「予言と約束が当たらないので、個々の指導的人物のことばに対する国民の信頼は、相当に損なわれた」と指摘しており、ヒトラー自身の演説に対する意欲も減退、回数も減り、1943年2月以降は聴衆のいないラジオ演説が主体となっている。戦争が終局になり、ヒトラーの数少ない、力のない演説は戦況に影響を与えることもなく、1945年1月30日のラジオ演説を最後としてヒトラーの演説は伝えられることもなくなった。
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