政権末期
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「バルザーン・イブラーヒーム・ハサン」の記事における「政権末期」の解説
2001年4月、かつて米中央情報局の工作員に接近しすぎたとして政権により処刑された、ファーディル・バッラーク元ムハーバラート長官の寡婦エナンと再婚する。しかし、この再婚についてはサッダームは何も知らされておらず、一族の面子を潰された格好のサッダームはバルザーンに兄弟仲の絶縁をちらつかせながら離婚するよう命じたが、バルザーンは拒否している。 このころのバルザーンはサッダームに対して非常に批判的であり、大統領の次子クサイの後継者指名にも反対した。アラ・バシールによると、2002年2月に開かれた友人同士の夕食会でバルザーンはアメリカ・イスラエルとの共存の必要性を語り、1989年に当時ジュネーヴ大使だった自分のところにあるアラブ国の外交官が現れ、イスラエルがイラクの軍事大国化に懸念を示し、イラクとの講和ができるか第三者を通じて交渉したいとのメッセージを伝え、バルザーンはサッダームに前向きに検討するよう進言したが、サッダームは激怒し、かつて預言者ムハンマドがイスラームを布教しようとした時、金で買収しようとした不信仰な商人を例に挙げ、そのような提案を二度としないように警告した。 それでもバルザーンはあきらめず、1991年湾岸戦争停戦後、再度対イスラエル和平について意見したが、サッダームは腹を立て「お前は西側の思想に毒されている」として逆に忠告されたことを明かした。バルザーンは、イラクがパレスチナ人の無益な反乱を支援するのがいかに馬鹿げているか嘆き、エルサレム解放を目的とした軍部隊「アル=クドゥス軍」についても市民を掻き集めて作った民兵に過ぎず、実戦能力も無いと切り捨てた。そして何度もアメリカ・イスラエルとの和解の必要性について口にしたという。アラ・バシールは自著の中で「彼はチャンスさえあれば、自分が政策を変更できると思いこんでいたのではないか。誰かが社交辞令の中でそそのかしたのかも知れない」と推測している。 2003年3月13日、イラク戦争が始まる一週間前にバルザーンはアラ・バシール医師の下を尋ね、国連安保理の措置におけるサッダームの対応の遅さ、側近の無能ぶりなどサッダーム政権に対する不満をぶちまけたという。3月29日にもバシール医師の下を尋ねてきたが、捨て鉢な様子で精神的に破綻する寸前に見受けられたという。 4月11日にラマーディーの自分の農園で潜伏中に空爆で死亡したとの報道がなされたが、政権崩壊後の4月17日、イラク側からの情報によりバルザーンはアメリカ軍と海兵隊によりバグダードで拘束された。アメリカ軍が作ったイラクのお尋ね者トランプカードの中に彼も含まれていた。
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政権末期
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「ウッドロウ・ウィルソン」の記事における「政権末期」の解説
もともと偏頭痛の持病があったが、1919年10月2日にコロラド州で脳梗塞を発症した。一命は取りとめたものの、左半身不随、左側視野欠損、言語障害といった重い後遺症が残り、大統領としての執務は事実上不可能となった。しかし、主治医と大統領夫人のイーディスはこの事実を秘匿し、以後の国政の決裁はイーディスが夫の名で行うこととなった。ウィルソンは長期間のリハビリを経た後、政権末期になってようやく閣議に出席できるまでに回復したが、言語に明瞭さは戻ったものの機械的で感情を欠き、政策も無為無策で事なかれ主義が目立つものとなった。こうした事態を収拾し職務を代行すべきであったトーマス・マーシャル副大統領は、そもそもウィルソンと不仲で副大統領職も半ば嫌々引き受けたという事情もあり、大統領の職務不能を知ってもあえて火中の栗を拾おうとはせず、いくつかの儀典に大統領の名代として参加した他は職務権限の代行は一切しなかった。 こうした事実が明らかになったのは、実にウィルソンの死後になってからのことであり、これが後の大統領権限継承順位を明文化した憲法修正第25条制定の伏線となった。
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