政権掌握と即位まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 02:31 UTC 版)
「ギヤースッディーン・バルバン」の記事における「政権掌握と即位まで」の解説
テュルク系遊牧民の出身で、父母は共に不明。生年に関してはトゥグルク朝の宮廷史家であるズィヤー・ウッディーン・バラニーの言によると晩年のバルバンは「80歳を越えていた」としているので、1210年代初め頃ではないかと推測される。 若い頃にモンゴルの侵攻によって捕らえられてマムルーク(奴隷軍人)となり、1232年に奴隷王朝の当時のスルターンであったイルトゥトゥミシュに宮廷奴隷として仕えた。このイルトゥミシュの時代に「ハーン」に任命されてイルトゥトゥミシュお付きの40人の奴隷の1人であった。だが当時は飲酒や賭博にふけって週に2、3回は宴会を催していたという。 1236年のイルトゥミシュの死後、その後継者らは政権を貴族に奪われて実権を持たなかった。バルバンはイルトゥトゥミシュ家の歴代スルターンの下で次第に頭角を現し、イルトゥミシュの子で第8代スルターンのナーシルッディーン・マフムード・シャーの時代には摂政として中枢を掌握し、1249年には娘をナーシルッディーンに嫁がせてイルトゥミシュ家と姻戚関係を結び、ナーシルッディーンから「ウルグ・ハーン・アーザム」の称号を与えられて国軍の指揮官に任じられ、テュルク系貴族の第一人者として政権を自由にする立場にまで上り詰めた。 だがナーシルッディーンと次第に対立。1253年には解任されて自領に追放された。だが1254年、ナーシルッディーンがバルバンが用いていたトルコ人に変えて非トルコ系の人材を重用するとトルコ系士官らがナーシルッディーンに反発。彼らは軍を率いてデリーを包囲し、バルバンの中枢復帰を求めた。このときバルバンはナーシルッディーンに王族を象徴する白い日傘(チャトル)を始めとする王の持ち物を渡すように要求。これらを全て奪い取った。あるとき、日傘を使用すると古参の貴族が嫌味な言葉を口にしたのでバルバンはこの貴族をすぐに殺害したという。そして1266年には傀儡(ノムナ)であったナーシルッディーンを毒殺して自らスルターンに即位した。
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