賈南風を捕縛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 13:45 UTC 版)
元康年間(291年 - 299年)、散騎常侍に任じられ、左軍将軍・翊軍校尉を兼務した。当時、叔母の賈南風や賈謐・郭彰を始めとした賈氏一族が権勢を誇っており、彼女らは皇太子司馬遹を偽りの罪で殺害するなど暴虐の限りを尽くしていた。彼女らの専横により政事は腐敗し、賄賂が横行するようになった。 300年3月、趙王司馬倫は賈氏の誅殺を目論んでおり、司馬冏に計画を伝えて協力を持ち掛けると、司馬冏はこれに参画する事を約束した。右衛佽飛督閭和・梁王司馬肜もまたこの計画に参与した。4月3日、司馬倫は政変を決行すると、偽の詔をもって宮門を開かせた。これを受け、司馬冏は兵100人を率いて宮中へ突入した。賈南風は宮中に乱入して来た司馬冏を見ると驚き「卿は何しに来たか」と問うと、司馬冏は「詔により皇后を捕らえに参りました」と答えた。賈南風は捕縛されると司馬冏へ「変事を起こしたのはいったい誰ですか」と問うた。司馬冏は「梁王(司馬肜)と趙王(司馬倫)です」と答えた。賈皇后は後悔して「犬の首ではなく、尾を繋いでいたのか」と口にしたという。賈南風は建始殿に幽閉されたて毒酒を与えられ自殺し、賈氏一族も尽く捕らえられ誅殺された。この政変の功績により、司馬冏は游撃将軍に任じられた。
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