関中を乱す
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 14:14 UTC 版)
290年4月、司馬炎が崩御し、子の司馬衷(恵帝)が後を継ぐと、291年8月に征東将軍・都督徐兗二州諸軍事に任じられた。9月、征西大将軍・都督雍梁二州諸軍事に進んで関中の守備を命じられ、開府儀同三司の特権を与えられた。しかし司馬倫の刑賞は不公平であった事から氐族・羌族の反乱を招いてしまい、司馬倫は雍州刺史解系と共にこれの討伐に当たったが、司馬倫は側近の孫秀を信任するあまり、それに不満を持つ解系と軍事作戦について意見が対立し、この論争は互いに朝廷へ作戦案を上奏するまでに発展した。朝廷は司馬倫が関中を乱したと判断して解系を支持し、司馬倫を更迭して洛陽に召喚し、代わりに司馬倫の兄である梁王司馬肜を征西大将軍・都督雍涼二州諸軍事に任じた。しかし後に司馬倫は解系を讒言して失脚させ、免官に追い込んでいる。 洛陽に帰還した司馬倫は、当時権勢を誇っていた賈謐を始めとした賈氏一派に取り入り、皇后賈南風やその母の郭槐に信任されて中宮に出入りするようになった。しかし司馬倫は録尚書事や尚書令の地位を賈謐らに求めたが、張華と尚書裴頠が共にこれに反対したので、司馬倫らは張華を強く憎んだ。張華もまた司馬倫らが変事を起こすのを恐れ、武庫で火事が起こった時は兵を配置して守備を固めてから火事の消火に当たる程であった。
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