関中を統治する
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献帝を迎えた曹操だったが、山東での戦乱はいまだ止まない一方で、関中には馬騰・韓遂が勢力を保っていたため、鍾繇に侍中のまま司隷校尉を兼任させ、持節を与え関中方面の軍事と統治を任せた。鍾繇は法令に拘束されない権限を持つようになったという。 長安に到達すると、馬騰・韓遂を説得して曹操に従わせることに成功した。馬騰・韓遂は子供を人質として朝廷に参内させた。 曹操が袁紹と黄河を挟んで争ったときは(官渡の戦い)、馬を2千余頭集めて曹操に送り軍役に立たせた。曹操は鍾繇を前漢の蕭何に準えて功績を称えた。 建安7年(202年)、袁尚と手を結んだ匈奴単于(呼廚泉)が河東郡平陽で反乱を起こすと、鍾繇は平陽を包囲した。このため袁尚配下の郭援(鍾繇の外甥)や高幹が平陽へ救援に向かった。諸将が郭援の勢いが盛んであることを理由に撤退を主張したが、鍾繇は関中の不安定な状勢を考えると撤退が難しいと説得し、また縁戚でもある郭援の性格を熟知していたことから、必ず打ち破れると鼓舞した。一方で張既に命令して、馬騰に郭援を討伐するよう説得させた。馬騰は説得に応じ、援軍として子の馬超や龐徳ら一万余人を送った。鍾繇は馬超・龐徳とともに郭援と戦い、川を渡りきる前に攻撃して大破し、郭援を討ち取り呼廚泉を降伏させた。鍾繇は、郭援を直接討ち取った龐徳から首級を見せられ号泣したが、陳謝する龐徳に対して「郭援は謀反人であるのだから、謝罪の必要はない」と言い、公私の別を明らかにしたという(「龐徳伝」)。 河東太守を長く務めた人物に王邑がいた。鍾繇が杜畿を新たな太守に任命し、王邑に印綬を渡すよう圧力をかけたが、王邑は鍾繇の意に反し、直接朝廷に出向き印綬を返した。鍾繇は面目を潰された形となったが、王邑の人望が厚く、朝廷に対しても功績のある人物であったため処罰を求めるわけにもいかず、代わりに自分自身への処罰を求めた。しかし、詔勅により辞任の申し出は却下された(『魏略』)。 まもなく河東の有力者である衛固が、高幹・張晟・張琰と結び反乱を起こした。曹操は再び張既を用いて馬騰らを呼び集めさせた。鍾繇は将軍たちを引き連れて、直ちに衛固らを鎮圧した。 長安遷都以来、洛陽の人口は激減していたが、鍾繇は洛陽に関中の住民を移住させ、また犯罪者・逃亡者を住まわせることにより、洛陽の人口を回復させた。後に曹操が関中を討伐できたのは、鍾繇の政策のお蔭であった。前軍師に任じられた。 建安16年(211年)、鍾繇は曹操に張魯討伐の名目で、馬超ら関中の諸将に対し人質を要求するよう提案した。関中の内政を担当していた衛覬がこれを諌め、荀彧を通じて曹操に翻意を促したが、曹操は鍾繇の強硬路線を採用した。結果的に馬超・韓遂らの反乱(潼関の戦い)を招いたため、死者は5桁に上ったという(「衛覬伝」が引く『魏書』)。
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