関中を統治するとは? わかりやすく解説

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関中を統治する

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 09:19 UTC 版)

鍾繇」の記事における「関中を統治する」の解説

献帝迎えた曹操だったが、山東での戦乱はいまだ止まない一方で関中には馬騰韓遂勢力保っていたため、鍾繇侍中のまま司隷校尉兼任させ、持節与え関中方面軍事統治任せた鍾繇法令拘束されない権限を持つようになったという。 長安到達すると、馬騰韓遂説得して曹操従わせることに成功した馬騰韓遂子供人質として朝廷参内させた。 曹操袁紹黄河挟んで争ったときは(官渡の戦い)、馬を2千余頭集めて曹操送り軍役に立たせた。曹操鍾繇前漢蕭何準えて功績称えた建安7年202年)、袁尚手を結んだ匈奴単于呼廚泉)が河東郡平陽反乱を起こすと、鍾繇平陽包囲したこのため袁尚配下郭援鍾繇外甥)や高幹平陽救援向かった諸将郭援勢いが盛んであることを理由撤退主張したが、鍾繇関中不安定な状勢考えると撤退難しいと説得し、また縁戚でもある郭援性格熟知していたことから、必ず打ち破れると鼓舞した一方で張既命令して馬騰郭援討伐するよう説得させた。馬騰説得応じ援軍として子の馬超龐徳一万余人送った鍾繇馬超龐徳とともに郭援戦い、川を渡りきる前に攻撃して大破し郭援討ち取り呼廚泉降伏させた。鍾繇は、郭援直接討ち取った龐徳から首級見せられ号泣したが、陳謝する龐徳に対して郭援謀反人であるのだから、謝罪の必要はない」と言い公私の別を明らかにしたという(「龐徳伝」)。 河東太守長く務めた人物王邑がいた。鍾繇杜畿新たな太守任命し王邑印綬を渡すよう圧力をかけたが、王邑鍾繇の意に反し直接朝廷出向き印綬返した鍾繇面目潰された形となったが、王邑人望厚く朝廷に対して功績のある人物であったため処罰求めるわけにもいかず、代わりに自分自身への処罰求めた。しかし、詔勅により辞任申し出却下された(『魏略』)。 まもなく河東有力者である衛固が、高幹張晟張琰と結び反乱起こした曹操は再び張既用いて馬騰らを呼び集めさせた。鍾繇将軍たちを引き連れて直ちに衛固らを鎮圧した長安遷都以来洛陽人口激減していたが、鍾繇洛陽関中住民移住させ、また犯罪者・逃亡者住まわせることにより、洛陽人口回復させた。後に曹操関中討伐できたのは、鍾繇政策お蔭であった。前軍師に任じられた。 建安16年211年)、鍾繇曹操張魯討伐名目で、馬超関中諸将対し人質要求するよう提案した関中内政担当していた衛覬がこれを諌め荀彧通じて曹操翻意促したが、曹操鍾繇強硬路線採用した結果的に馬超韓遂らの反乱潼関の戦い)を招いたため、死者5桁上ったという(「衛覬伝」が引く『魏書』)。

※この「関中を統治する」の解説は、「鍾繇」の解説の一部です。
「関中を統治する」を含む「鍾繇」の記事については、「鍾繇」の概要を参照ください。

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