衛覬とは? わかりやすく解説

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衛覬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/20 08:34 UTC 版)

衛 覬(えい き、建寧元年(168年) - 太和3年(229年[1])は、中国後漢末期から三国時代の政治家・学者・文化人。伯覦または伯儒[2]司隷河東郡安邑県(山西省夏県)の人。曽祖父は衛暠[3]。子は衛瓘・衛寔。孫は衛恒。曾孫は衛玠。

生涯

若くして頭角を現し曹操に登用され、司空掾属・茂陵県令を経て、尚書郎となる。曹操は袁紹と対立すると、荊州劉表が気がかりであったため、益州劉璋に使者を送り牽制させようとし、その使者に衛覬を選んだ。治書侍御史に任命された衛覬は、長安まで来たところで益州への道が途絶していることを知り、そのまま関中に留まった。

関中の荒廃を見て、荀彧に手紙を送り復興を提言し、曹操の了承を得て整備に尽力した。また民力の充実を第一に考えた衛覬は、軍事的安定の確立を優先する鍾繇のやり方が、関中の諸将の疑惑を招く危険を警告した。後に潼関の戦いにおける曹操軍の戦死者が5桁にのぼったことから、曹操は衛覬の策を取らなかったことを深く悔い、いっそう尊重するようになったという。

中央に召還され尚書となった後、建安18年(213年)11月、王粲杜襲和洽と共に、藩国として建国された魏の侍中となる[4]。朝廷の古い慣例に詳しいという才を買われ、王粲と共に魏国体制の基礎を築く作業を行った。

建安25年(220年)、曹操が没し曹丕が王位につくと、尚書を経て漢の侍郎となり[5]、魏への禅譲の道を開く作業に尽力し、功績があった。曹丕(文帝)が帝位につくと再び尚書となり、陽吉亭侯に取り立てられた。

黄初7年(226年)に曹叡(明帝)が帝位についた後、閿郷侯となり、領邑300戸に昇進した。法律の博士を設置し法を末端まで行き届かせることや、曹叡の奢侈を諌める上奏を行った。

太和3年(229年)に没し[1]、敬侯と諡された。子の衛瓘が爵位を継いだ。

『魏官儀』など著作を多く残し、西晋の時代には文筆家として著名を馳せた。書体にも精通していたため、後世の書道の世界にも高名を残している。『魏書』の編纂にも参画したという[6]

出典

脚注

  1. ^ a b 房玄齢等の『晋書』衛瓘伝によると、子の衛瓘(220年生)が10歳の時に死去。張懐瓘『書断』によると享年は62[1]
  2. ^ 『華芳墓誌』では伯覦、『三国志』衛覬伝では伯儒とする。
  3. ^ 『晋書』衛瓘伝より。衛暠は後漢の明帝の時代、儒学により代郡から徴召されたが、安邑県まで来たところで没した。子孫はその地を賜って居住し、衛暠を葬ったという。
  4. ^ 『三国志』魏書武帝紀の注に引く『魏氏春秋』。
  5. ^ 『三国志』魏書文帝紀注の『献帝伝』が引用する、献帝の禅譲の詔勅では、守尚書令侍中としてその名が見える。献帝の使者として、曹丕に受禅を促す役目を負った。
  6. ^ 劉知幾史通』古今正史篇



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