唐咨とは? わかりやすく解説

唐咨Tang Zi

トウシ
タウシ

(?~?)
左将軍持節列侯
安遠将軍

利城郡の人《諸葛誕伝》。

黄初六年(二二五)六月利城郡の兵士蔡方らが郡をこぞって叛乱起こし太守徐質殺害した蔡方は唐咨を擁立して叛乱軍の指導者とした。文帝曹丕は屯騎校尉任福・歩兵校尉段昭を派遣し青州刺史王淩徐州刺史呂虔とともに討伐させた。唐咨は海上逃れそのまま呉に亡命した文帝紀・呂虔諸葛誕伝》。

嘉禾五年(二三六)二月ごろ、唐咨は鎮南将軍呂岱指揮のもと、一昨年前より叛乱起こしていた廬陵賊徒羅厲を生け捕りにした《呉主・呂岱伝》。赤烏二年(二三九)十月都督廖式が叛乱して荊州交州諸郡を荒らしまわり、数万人の仲間集めたので、唐咨は呂岱とともに討伐し、一年余り鎮圧した《呉主伝》。

某年賊徒の董嗣が略奪働いて予章臨川の両郡に被害与えており、唐咨は吾粲とともに三千人で攻撃したものの何ヶ月も勝つことができなかった。鄱陽太守周魴計略でようやく平定された《周魴伝》。

建興元年(二五二十月大傅諸葛恪東興築城していたが、十二月、魏が諸葛誕胡遵らを差し向けて東興城を包囲したので、唐咨・呂拠留賛丁奉らを伴って長江渡り先鋒を唐咨らと丁奉とに軍勢分け、徐塘を挟み撃ちにして大勝利収めた孫亮丁奉諸葛恪伝》。

唐咨は呉にあって左将軍持節官職授かり、侯に封ぜられていたという《諸葛誕伝》。

太平元年(二五六八月丞相孫峻前将軍唐咨を征北大将軍文欽驃騎将軍呂拠車騎将軍劉纂・鎮南将軍朱異とともに江都出発させ、淮水泗水流域進出させる。翌九月孫峻病没したため召還された。唐咨・呂拠文欽上表して衛将軍滕胤丞相にするよう訴えた聞き入れられなかった。呂拠孫綝朝廷実権握った聞いて怒り、彼を討とうとした。孫綝は呉帝孫亮詔勅を出させ、唐咨・文欽呂拠追討させた。十月、さらに将軍孫憲丁奉・施寛らが派遣され呂拠迎撃し、将軍劉丞が滕胤討伐した。かくて滕胤敗北して一族皆殺しとなり、呂拠自殺した孫亮呂範孫綝伝》。

甘露二年(二五七五月、魏の征東大将軍諸葛誕謀叛企て長史呉綱末子諸葛靚使者として呉に救援求めた。唐咨は文欽全懌全端・王祚らとともに諸葛誕救援駆け付け軍勢万人寿春城に入れて籠った。魏帝曹髦大将軍司馬昭とともに東征にあたると、諸葛誕部将蔣班・焦彝らは城壁越えて投降し全懌らも降服した諸葛誕伝》。

籠城軍昼夜五・六日にわたって包囲陣を攻撃し続けたが、包囲を破ることはできなかった。諸葛誕意見食い違いから文欽殺害すると、文欽の子文鴦文虎は魏に投降し城外から「文欽の子でさえ殺されなかったのだから、他の者たちは心配いらないぞ」と呼びかけた。城内では食糧尽き果てており、さらにまた戦意失った司馬昭一斉攻撃をかけると、城兵はあえて抵抗することなく寿春城は陥落した。唐咨は王祚らとともに降服した諸葛誕伝》。

この戦役で、叛逆者である諸葛誕文欽・唐咨が片付いたので、魏の人々大喜びしたが、朝廷では唐咨を改め安遠将軍任じその他の副将たちにも称号官位与えたので、南方から来た人々喜んで帰服した。呉の方でもその処置感動し、唐咨らの家族処罰することはなかった《諸葛誕伝》。司馬昭勝利乗じて呉に侵入しよう計画したが、鎮南将軍都督揚予諸軍王基進言より取り止めた王基伝》。

景元三年(二六二)冬、司馬昭詔勅によって諸州に艦船建造させ、同時に唐咨に命令して外海用の船舶建造させた。こうして呉討伐のように見せかけ翌年秋に鎮西将軍都督関中諸軍鍾会に蜀を攻略させたのである。このとき鍾会が蜀の官民出した宣伝文によると、唐咨は帰順後、魏の国政参与していたとのことである《鍾会伝》。

参照王基 / 王祚 / 王淩 / 呉綱 / 吾粲 / 胡遵 / 蔡方 / 司馬昭 / 施寛 / 朱異 / 周魴 / 徐質 / 諸葛恪 / 諸葛靚 / 諸葛誕 / 焦彝 / 蔣班 / 鍾会 / 任福 / 全懌 / 全端 / 曹丕 / 曹髦 / 孫憲 / 孫峻 / 孫綝 / 孫亮 / 段昭 / 丁奉 / 董嗣 / 滕胤 / 文欽 / 文虎 / 文俶文鴦) / 羅厲 / 留賛 / 劉纂 / 劉丞 / 呂拠 / 呂虔 / 呂岱 / 廖式 / 関中 / 魏 / 荊州 / 呉 / 交州 / 江都 / 泗水 / 寿春県 / 蜀 / 徐州 / 徐塘 / 青州 / 長江 / 東興 / 鄱陽郡 / 予州 / 揚州 / 予章郡 / 利城郡 / 臨川郡 / 廬陵郡 / 淮水 / 安遠将軍 / 衛将軍 / 侯 / 左将軍 / 刺史 / 持節 / 車騎将軍 / 丞相 / 征東大将軍 / 征北大将軍 / 前将軍 / 太守 / 大将軍 / 大傅 / 長史 / 鎮西将軍 / 鎮南将軍 / 都督 / 屯騎校尉 / 驃騎将軍 / 歩兵校尉


唐咨

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/21 13:03 UTC 版)

唐 咨(とう し、生没年不詳)は、中国三国時代の武将。徐州東海郡利城県の人。『三国志志「諸葛誕伝」に附伝されている。その他、魏志・志の各所に名が窺える。

魏で反乱を起こしたが失敗し、呉に仕えた。呉では厚遇を受け武官として出世した。諸葛誕の反乱の援軍に派遣されたが敗れて降伏し、魏に再び帰参した。

生涯

魏の曹丕(文帝)の時代である黄初年間、利城郡において反乱が起き、太守が殺害された後に唐咨が反乱の指導者として祭り上げられた[1]。しかし、曹丕が派遣した追討軍[2]により反乱は鎮圧されてしまった。このため唐咨は船で海中に逃走し、呉の孫権を頼って落ち延びた。

嘉禾3年(234年)、廬陵郡会稽郡南海郡で賊が蜂起した[3]。このため嘉禾4年(235年[4]、唐咨は孫権の命令で劉纂と共に呂岱の指揮下につけられ、反乱の鎮圧にあたった。さらに嘉禾5年(236年)、唐咨は廬陵の賊である羅厲を捕虜とした[4]

豫章臨川の賊である董嗣の略奪を阻止するため、吾粲と共に兵士3000人を率いて防戦したが、数カ月経ってもこれを退けることはできなかった[5]

赤烏2年(239年)冬10月、都督の廖式が臨賀太守の厳綱を殺害し、平南将軍を自称して反乱を起こした。反乱の影響は零陵郡桂陽郡交州蒼梧郡鬱林郡にまで及び数万人の規模となった。このため唐咨は、孫権の命令で呂岱と共にその討伐にあたり、1年ほどでこれを鎮圧した[4]

五鳳3年(256年)、同じ魏からの降将である文欽とともに進言し、孫峻北伐を実施させた。同年8月に派遣された呂拠率いる先発隊に、唐咨も前将軍として従軍した。途中で孫峻が急死し孫綝が継ぐと、呂拠はこれに不満を持ち反乱を起こそうとした。しかし、唐咨は孫綝の命令を受け文欽と共に呂拠を攻撃し、これを滅ぼした[6]

呉においては左将軍にまで出世し、列侯され持節も与えられたという。

甘露2年(258年)5月、魏に対し反乱を起こした諸葛誕への援軍の将の1人として、文欽らと共に寿春に籠城し魏軍と戦ったが、魏の包囲陣の前に呉の後続の援軍が断れたため、城中に孤立した(諸葛誕の乱)。

甘露3年(259年)3月、寿春が落城し唐咨は捕虜となった。魏の司馬昭は諸葛誕・文欽・唐咨を三人の謀反人と呼び、魏の人達も唐咨が捕虜になったことを嘲笑した。しかし、司馬昭が唐咨を赦免し安遠将軍に任じるなど、厚遇を与えたため、人々は司馬昭の徳を賞賛したという。なお、他の呉からの降伏者も同様に厚遇を受けたため、呉側も彼等の家族を処刑するようなことはしなかったという。

景元3年(262年)冬、司馬昭は腹心の鍾会を仮節・都督関中諸軍事・鎮西将軍に任命し、蜀漢攻撃の準備をすすめる一方で、東方の州に船の建造を命じた。さらに唐咨に命じて大型の海上船を建造させ、表向きは呉攻撃の準備に見せかけようとしたという[7]。以後の事績は不詳である。

三国志演義

小説『三国志演義』でも、諸葛誕の反乱における援軍の将として登場し、魏軍に敗れて呉に戻ろうとするが、孫綝に処刑されることを恐れ、司馬昭に投降したことにされている。なお、呉に残していた家族は孫綝によって処刑されてしまう。後の蜀討伐にも参加している。

参考文献

脚注

  1. ^ 『三国志』魏志「文帝紀」によると黄初6年(225年)6月。兵士蔡方らが郡を挙げて反乱を起こし、太守の徐質を殺害したという。
  2. ^ 『三国志』魏志「文帝紀」によると、屯騎校尉の任福・歩兵校尉の段昭が中央より派遣され、青州刺史王淩らが協力したという。『三国志』魏志「呂虔伝」によると、徐州刺史の呂虔が従軍。
  3. ^ 『三国志』呉志「呂岱伝」
  4. ^ a b c 『三国志』呉志「呉主伝」
  5. ^ 『三国志』呉志「周魴伝」
  6. ^ 『三国志』呉志「三嗣主伝」
  7. ^ 『三国志』魏志「鍾会伝」



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