孫綝の暴虐
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孫綝は、孫峻の権力を継承すると、呂拠らに帰還命令を出したが、呂拠は孫綝の権力継承に大きく不満を懐いた。呂拠・文欽・唐咨は上奏し、滕胤を丞相とするよう推薦したが、孫綝はこれを拒否、9月30日、孫綝は滕胤を大司馬に転任させて、呂岱の代わりに武昌に赴かせた。呂拠らは軍を戻し、帰還して孫綝を討とうとした。だが、孫綝は文欽と唐咨に詔書を送り、10月、孫憲・丁奉・施寛らを派遣し、水軍を指揮させ江都で呂拠を迎え撃たせた。また、滕胤に対しては将軍の劉丞を送って、歩兵騎兵を指揮し、攻撃させた。滕胤は敗れて一族皆殺しとなり、呂拠も新州で捕えられた。呂拠は謀反人となる事を恥じて自害し、一族は皆殺しとなった。 同年11月、孫綝は大将軍に任命され、仮節・永寧侯となった。孫憲は将軍の王惇と図り孫綝の暗殺を謀ったが発覚し、王惇は殺害され、孫憲は自殺した。12月、五官中郎将の刁玄を使者として蜀漢に送り、反乱が鎮圧された事を報告した。 太平2年(257年)4月、孫亮は正殿に出御し、大赦を実行して自ら政務を執った。孫亮はしばしば宮を出て中書にて孫権の旧事を目にし、左右の侍臣に尋ねた。 「先帝にはしばしば自ら詔を書いたのに、今は大将軍が事を計り、ただ私が“可”と書いて命じるだけではないか。」 この後、孫綝の意見に孫亮が反対・反論することが多くなった。おそれた孫綝は建業に帰還後も参内しないようにした。また、15歳以上18歳以下の兵士の子弟を選抜し、近衛軍を作り、御苑の中で日々演習を行った。 同年5月、諸葛誕が魏に反乱を起こした。寿春に籠城すると共に、将軍の朱成を呉への臣従の使者として送り、援軍を申し出た上で、子の諸葛靚や呉綱など側近の子弟らを人質に送ってきた。同年6月、孫綝は文欽・唐咨・全端らに命じて、歩兵・騎兵3万人を指揮させ諸葛誕の救援に向かわせた。一方で、朱異に命じて虎林より軍勢を率いて夏口を攻撃させると、孫壱は魏に亡命した。同年秋7月、孫綝は自ら軍勢の指揮を執って寿春に赴き、鑊里の地において夏口から来た朱異と合流した。孫綝は朱異を前部督に任命して、丁奉と共に兵士5万を指揮して寿春の包囲陣を攻撃させた。 同年8月、会稽郡南部で反乱が起き、都尉が殺害された。鄱陽郡と新都郡で民衆が反乱を起こし、丁密・鍾離牧・歩兵校尉の鄭冑がこれを討伐した。 朱異は魏軍の包囲陣を崩せないまま兵糧が尽き、撤退した。孫綝は激怒し、同年9月朔日に朱異を鑊里で殺害した。9月3日、孫綝は鑊里より建業に帰還した。 同年11月、全緒の子の全禕・全儀が母を連れて魏に亡命した。12月、寿春で孤立していた全端・全懌が司馬昭に降伏した。 太平3年(258年)正月、諸葛誕が文欽を殺害した。さらに3月、司馬昭が寿春を落城させ、諸葛誕らを滅ぼし、その部将や軍吏を降服させた。 同年秋7月、孫奮を章安侯に封じた。
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