孫策との戦い、裏切りの果ての最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 04:54 UTC 版)
「笮融」の記事における「孫策との戦い、裏切りの果ての最期」の解説
その後、笮融は薛礼が守る秣陵城(後の呉の都、建業)の南に駐屯した。劉繇が孫策に攻められると、笮融は薛礼と共に劉繇を支援して戦い、一進一退の攻防の中で、孫策に矢傷を負わせている。しかし笮融が、孫策が死んだとの偽情報を信じて策にはまり大敗すると、劉繇陣営全体も敗北を喫した。 笮融は劉繇に従って逃亡し、彭沢に駐屯した。笮融は劉繇の命令を受けて、諸葛玄と豫章太守の座を争っていた朱皓を救援し、建安2年(197年)正月に諸葛玄を戦死させた。ところが笮融は自立の野心を抱き、朱皓や盟友の薛礼までをも殺し、豫章の支配権を奪い取った。その後、攻め込んできた劉繇と激戦を繰り広げたが、ついに敗北して逃走し、最後は付近の住民に捕らえられ殺されてしまった。
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