孫策に敗れる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 08:40 UTC 版)
袁術の故吏であり、曹操とも旧知であったという(『三国志』呉志「破虜討逆伝」、『三国志』魏志「司馬芝伝」が引く『魏略』)。 中平年間には沛国建平の県長を務めていた(『三国志』魏志「司馬芝伝」が引く『魏略』)。 揚州に進出した袁術は、廬江郡を孫策に命じて攻略させたが、太守の座には孫策ではなく、自分の元々の部下である劉勲を任命した(『三国志』呉志「破虜討逆伝」)。 劉勲は皖城を本拠としていた。建安4年(199年)6月に袁術が死ぬと、劉勲は孫策を頼って落ち延びようとする、袁術軍の大将の楊弘と張勲らを捕虜とし、財宝を略奪し、その軍勢も吸収したという 同じ頃、皇族の流れを汲む豪族の劉曄は、賊の鄭宝を討ってその配下を降参させて軍勢を手に入れていたが、資力などの問題から自身で軍勢を率いることを望まなかったため、劉勲に鄭宝の軍勢を預けることを申し出てきた。劉勲は不審がったが、劉曄が説明をすると納得し、鄭宝の軍勢をも吸収した(『三国志』魏志「劉曄伝」)。 こうして劉勲は長江・淮河の一大勢力へと発展した。しかし急増した兵を養えず、慢性的な兵糧不足に悩むことになる。 孫策はかねてから劉勲の勢力に恐れを抱き、表向きは友好関係を取り繕いつつ、攻撃の機会を狙っていた。あるとき、孫策は劉勲に贈り物と共に謙った内容の手紙を送り、豫章郡の上繚の賊を共に討つことを提案してきた。孫策の意図に疑問をもった劉曄は反対したが、劉勲は兵糧確保をする必要もあり、上繚へ出兵した。しかし、やはりその隙に本拠である皖城を孫策に攻め取られてしまった。劉勲は江夏太守の黄祖の支援を受けて西塞山において、孫策と戦ったが完敗したという(『三国志』魏志「劉曄伝」、『三国志』呉志「破虜討逆伝」)。
※この「孫策に敗れる」の解説は、「劉勲」の解説の一部です。
「孫策に敗れる」を含む「劉勲」の記事については、「劉勲」の概要を参照ください。
- 孫策に敗れるのページへのリンク