黄射
黄祖の太子(長子?)。章陵太守。「射」の音「亦」とある《後漢書禰衡伝》。 はじめ父黄祖と別れて襄陽の劉表のもとにいたが、劉表を訪れた禰衡とともに父のいる夏口に行った《荀彧伝》。黄射は章陵太守となって禰衡と大変親しくなった。あるとき黄射は彼と一緒に旅行に出かけて蔡邕の書いた碑文を見たことがあり、そこに書かれた言葉が気に入った。帰国してから書き写さなかったことを後悔したが、それを禰衡が暗記していたので彼に感服した《後漢書禰衡伝》。 また賓客たちを大々的に集めて酒宴を開いたが、座中に鸚鵡を献上した者があった。黄射は杯を禰衡に捧げながら、「先生、これを賦にして賓客の方々を楽しませてくだされ」と所望した。禰衡は筆を手に取って賦を作ったが、文章には過不足なく、言葉もはなはだ流麗であった《後漢書禰衡伝》。 黄祖も禰衡の才能を評価して、客人が来たときはいつも同席させていたが、のちに罵倒されたと思って彼を殺害した《荀彧伝》。黄射は裸足のまま駆けつけて救おうとしたが間に合わず、涙を流して「この人は異才の持ち主で曹操も劉荊州も殺さなかったのに、大人(ちちうえ)はどうして殺してしまったのですか」と歎き悲しんだ《後漢書禰衡伝・同集解》。 建安四年(一九九)、孫策が太守劉勲を欺いて廬江郡を占拠すると、劉勲は西塞山に楯籠って黄祖に来援を求めた。黄射は黄祖から水軍五千を預かって救援に赴いたが、劉勲はすでに孫策に敗れて北方に逃走していたので軍を帰還させた《討逆伝》。 同十一年、部将鄧龍とともに数千の軍勢を率い、柴桑城を攻撃した。柴桑県長徐盛の手勢はわずか二百人足らずだったが、果敢に戦って黄射の軍勢のうち千人を負傷させた。宮亭に駐屯していた周瑜が駆け付けてくると、徐盛も城を出て黄射を追撃し、鄧龍が生け捕りとなった。こうしたことから黄射は柴桑を窺おうとはしなくなった《周瑜・徐盛伝》。 【参照】黄祖 / 蔡邕 / 周瑜 / 徐盛 / 曹操 / 孫策 / 禰衡 / 鄧龍 / 劉勲 / 劉表(劉荊州) / 夏口 / 宮亭 / 柴桑県 / 襄陽県 / 章陵郡 / 西塞山 / 廬江郡 / 県長 / 太守 / 鸚鵡 / 大人 / 賦 |
黄射
黄射
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/07 08:28 UTC 版)
姓名 | 黄射 |
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時代 | 後漢時代 |
生没年 | 〔不詳〕 |
字・別号 | 〔不詳〕 |
本貫・出身地等 | 〔不詳〕 |
職官 | 章陵太守 |
爵位・号等 | - |
陣営・所属等 | 劉表 |
家族・一族 | 父:黄祖 |
黄 射(こう えき[1]、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の武将、政治家。父は黄祖。
事跡
劉表配下。 建安4年(199年)当時、黄射は章陵太守の地位にあった。そのため黄祖・黄射は父子で同時期に、荊州内2郡の太守を務めていたことになる。
同年、廬江の劉勲は孫策に攻められ、西塞山中の流沂城に逃げ込むと、黄祖に救援を求めてきた。父は、黄射に水軍5千人を率いさせて援軍に差し向けた。しかし、到着前に劉勲が孫策に撃破され、曹操を頼って逃亡したため、黄射は退却した。孫策はそのまま夏口まで攻め寄せて黄祖軍を破り、黄祖の妻子である男女7人を捕虜とした。ただ、その後も黄射は活動しているため、捕虜とされた男女の中に黄射が含まれていた可能性は低い。
建安6年(201年)以降になると、黄射は数千の軍勢を率いて柴桑県を攻撃した[2]が、孫権軍の徐盛に僅か200人の兵で迎撃された。黄射はこの戦いで大敗、二度と柴桑に攻め寄せることは無かった。
建安13年(208年)、ついに黄祖は孫権に攻め滅ぼされた。しかし黄射の生死・行方は不明である。
一方で、黄射は禰衡の友人であり、禰衡を父に紹介している。当初は父も禰衡を高く評価していたが、その不遜な言動に耐えられなくなり、ついにこれを処刑した。この時、黄射は処刑を止めさせようとしたが、その場に居合わせていなかったため間に合わなかった。黄祖も後悔し、禰衡を手厚く葬ったという。
なお、小説『三国志演義』には登場しない。
脚注
参考文献
- >> 「黄射」を含む用語の索引
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