廬江郡制圧とは? わかりやすく解説

廬江郡制圧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 05:29 UTC 版)

孫策の江東平定」の記事における「廬江郡制圧」の解説

199年袁術軍は漢軍に大敗し失意のうちに死去した袁術配下楊弘張勲袁術家族連れて孫策に降伏ようとした。しかし、廬江太守劉勲楊弘張勲らを攻撃して捕らえ財宝略奪してその軍勢吸収した孫策劉勲勢力危険視し、表向き友好関係取り繕いつつ、攻撃機会狙っていた。 あるとき、孫策劉勲贈り物と共に謙った内容の手紙を送り豫章郡の上繚の賊を共に討つことを提案してきた。孫策意図疑問をもった配下劉曄反対したが、劉勲兵糧確保をする必要もあり、上繚へ出兵した。孫策劉勲が上繚に向かった聞くと軍を2つ分けた孫賁孫輔彭沢残して劉勲待ち伏せるよう命じ孫策周瑜と共に2万軍勢率いて劉勲留守の間廬江の皖城を攻撃して電撃的落とし袁術劉勲妻子捕虜にした。またこのとき周瑜は皖県の豪族・喬公のふたりの娘を捕虜にして、姉の大喬孫策側室に、妹の小喬自分側室とした。 その後孫策李術廬江太守任命し廬江を守らせ、自身孫賁らを加勢するため彭沢向かった。 皖城陥落の報に驚愕した劉勲海昏県に向かおうとしたが、孫賁孫輔兄弟率いる8,000人の軍勢撃破された。劉勲西塞山篭り江夏太守黄祖援軍求めた黄祖息子黄射水軍をつけて派遣するが、劉勲黄射孫権周瑜らに攻撃され敗れ劉勲進退窮まって数百人の部下連れて曹操帰順し列侯封じられた。孫策劉勲水軍手に入れそのまま黄祖討伐向かった

※この「廬江郡制圧」の解説は、「孫策の江東平定」の解説の一部です。
「廬江郡制圧」を含む「孫策の江東平定」の記事については、「孫策の江東平定」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「廬江郡制圧」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「廬江郡制圧」の関連用語

廬江郡制圧のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



廬江郡制圧のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの孫策の江東平定 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS