孫壱
孫壱 (沙羡侯)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 16:33 UTC 版)
孫壱(? - 259年)は、三国時代の人物。呉の宗室の一人。父は孫奐(庶子)。兄は孫承。弟は孫封。妹は女子二人(滕胤妻・呂拠妻)。 234年に父が死去し、その跡を継いだ兄も243年に没したため、庶子の孫壱が採り立てられた。 夏口を守備し、鎮南将軍となり軍権を任されていた。諸葛恪が誅殺されると、孫峻の命令で朱績・全熙と共に、公安に駐屯していた諸葛融を攻撃し、自殺に追い込んだ。この功績で鎮軍将軍となり、仮節を与えられた。 従子の孫綝(伯父の孫暠の孫)が実権を握ると、それに反発した滕胤と呂拠が謀反を起こしたが討伐され、弟もこの件に関与していたため自殺した。孫壱の妹二人が滕胤と呂拠に嫁いでいたため、孫壱本人も孫綝に疑われるようになった。 257年、孫綝は魏での諸葛誕の反乱を支援するため寿春に出兵したが、その一件に託け孫壱を排除しようと考え、朱異に命じて孫壱を攻撃させた。孫壱は朱異の軍が武昌まで来たところでその意図に気づき、部曲千人と滕胤妻を引き連れて魏に亡命した。魏においては車騎将軍・儀同三司に任命され、また呉侯にも封じられた。さらに曹芳(斉王)の貴人の邢氏(曹芳は存命だったがすでに皇帝を廃位されており、それで離縁同様になっていたと見られる)を与えられるなど、再三の厚遇を受けた。しかし、邢氏が嫉妬深く乱暴をよく働いたため、259年にそれを恨んだ家臣によって殺害され、その時に孫壱も巻き添えとなり殺されてしまった。
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