留賛とは? わかりやすく解説

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留賛Liu Zan

リュウサン
リウサン

183255
左将軍・使持節・左護軍

字は正明。会稽郡長山の人《孫峻伝》。

若くして郡役人となり、黄巾賊戦って首領の呉桓を斬ったが、留賛も負傷して足が曲がってしまった《孫峻伝》。

兵法書三史好んだが、古代将軍戦いぶりを読むたびに歎息していた。そこで親戚呼び寄せて告げた。「誰もが富貴身になることができるのに、私は足が萎えてしまい、生きていても死んだのと同然だいっそのこと足の筋を切って伸ばしたいと思う。もし死なずに足が伸びればお役立てるだろうし、死んだそれまでのことだ」と。親戚たちはみな反対した。そののち留賛はひとりで足の筋を切断した。血が滂沱として流れ、留賛は気絶した家人はそれを知って驚き配したが、もう後戻りできない考えて足を引き伸ばしてやった。傷が癒えると、つまづきながらも歩くことができるようになった孫峻伝》。

淩統そのこと聞いて彼を招き会ってみて立派だ思い上表して彼を推薦した。こうして試験的に採用されることになった。留賛はたびたび戦功立てて屯騎校尉任じられた《孫峻伝》。時事問題話題になったときは、いつも正論好み他人におもねるような発言はしなかった。そのため孫権は彼を恐れ憚っていた《孫峻伝》。

留賛は部将として出陣し、敵に遭遇すると、必ず髪を振り乱しながら天に向かって叫び、そして声を張り上げて歌い左右の者がそれに応じた。それが終わると進撃し戦え勝てないことはなかった《孫峻伝》。

建興元年(二五二十月大傅諸葛恪に従って東興進出する。このとき冠軍将軍丁奉山岳地帯通過して川の上流を占拠することを提案したので、留賛は呂拠唐咨とともに丁奉とは別の道を通って上流向かった。徐塘にはすでに魏の陣営築かれていたが、彼らが油断して酒に酔っていたので丁奉はこれを攻撃したそのとき留賛らも到着して攻撃をかけたので、魏の軍勢潰走した《諸葛恪伝・丁奉伝》。その戦功により留賛は左将軍任じられる孫峻伝》。

五鳳二年(二五五)正月、魏の毌丘倹文欽叛乱起こした聞き、翌閏月丞相孫峻は留賛・驃騎将軍呂拠伴って寿春攻め上り敗北した文欽合流した。留賛は節を授かって護軍任じられたが、行軍中に病気かかってしまった。そこで孫峻輜重車指揮して帰還させたが、二月、魏の部将蔣班が歩騎四千人率いて留賛を陂まで追跡してきた。留賛は病のため布陣整えることもできず、敗北悟った孫亮伝・孫峻伝・高貴郷侯紀・諸葛誕伝》。

そこで曲印綬子弟預けながら、「私は部将となってからというもの、敵を撃ち破って旗を奪い一度負けたことはなかった。しかしいま病気重く兵士数少ないうえ貧弱だお前たち早く逃げよ一緒に死んで無益で、敵を喜ばせるだけだ」と言った子弟言うとおりにしなかったので、留賛が刀を抜いて斬り付けようとすると、ようやく彼らは去っていった。そこへ蔣班らが襲ってきて、留賛は殺害された。七十三歳であった孫峻伝》。

参照毌丘倹 / 呉桓 / 諸葛恪 / 蔣班 / 孫権 / 孫峻 / 丁奉 / 唐咨 / 文欽 / 呂拠 / 淩統 / 会稽郡 / 陂 / 寿春県 / 徐塘 / 長山県 / 東興 / 冠軍将軍 / 左護軍 / 左将軍 / 丞相 / 大傅 / 屯騎校尉 / 驃騎将軍 / 印綬 / 曲 / 黄巾賊 / 三史 / 節


留賛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/18 15:19 UTC 版)

留 賛(りゅう さん、183年 - 255年)は、中国後漢末期から三国時代にかけての武将。正明揚州会稽郡長山県の人。子は留略留平。『三国志』呉書孫峻伝に注引く韋昭の呉書に伝記がある。

経歴

若い頃にの役人となり、黄巾賊の首領の呉桓を自ら討ち取ったが、負傷して足が不自由になった。激しい気性の持ち主で、兵法書や歴史書を読むことを好んだが、先人達の姿に気持ちが逸り、家族の反対を押し切って足の筋を切ることを決めた。激痛のあまり気絶したが、家族がその間に足を引き伸ばしたため、傷が癒えた後には、びっこは引いても歩けるようになった。

このことを聞いた凌統は、留賛を孫権に推薦した。留賛は官職に就き何度か戦功を挙げ、屯騎校尉となった。留賛が直言し主君の言に憚らないため、孫権は憚った。

建興元年(252年)、東関の役が勃発すると諸葛恪丁奉呂拠朱異らと共に、東興で胡遵諸葛誕を大いに破り、桓嘉韓綜らを斬った(東興の戦い)。この功績で左将軍となった。

留賛は部将として敵と戦う時、髪を振り乱して大きな叫び声を上げ、側に仕える者達と大声で歌を歌ってから戦った。そして、敵に必ず勝利したという。

五鳳2年(255年)、寿春毌丘倹の反乱に乗じて、孫峻の指揮下で魏に攻め入った。孫峻から節と左護軍を授けられての出陣であったが、陣中で病に倒れた。孫峻に輜重を率いて撤退することを命じられたが、帰還途中に諸葛誕の部将蔣班の追撃を受けた。この時、留賛は病気のため歌うことができないどころか、陣立てすら儘ならないほど重態であった。このため留賛は自分の敗北を悟り、身内の若者に将軍を示す曲蓋と印綬を与え、剣で脅し無理矢理逃亡させた。自らは敵の追撃で将軍の孫楞や蔣脩らと共に戦死した(毌丘倹・文欽の乱)。73歳であった。人々はみな留賛の戦死を大いに悼み惜しんだという。

道教の神になる

陶弘景が著した『真霊位業図』には、歴史上の人物が道教の神やそれに仕える役人として記載されており、その中に留賛は「主南門鑰司馬」として神格化された。



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