リュウサンとは? わかりやすく解説

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りゅう‐さん〔リウ‐〕【硫酸】

読み方:りゅうさん

無機酸の一。純粋なものは無色粘りけのある油状液体一般に水溶液をさし、濃度により希硫酸濃硫酸という。濃硫酸混合する多量の熱を発生し、また脱水作用強く化合物中から水素酸素を2対1の割合で奪う。工業的には、二酸化硫黄接触法により酸化して三酸化硫黄とし、に溶かして作る化学工業重要な基礎原料の一で、金属精錬紡織製紙食品染料肥料石油合成樹脂などの分野広く用いられる化学式H2SO4

「硫酸」に似た言葉

留賛Liu Zan

リュウサン
リウサン

183255
左将軍・使持節・左護軍

字は正明。会稽郡長山の人《孫峻伝》。

若くして郡役人となり、黄巾賊戦って首領の呉桓を斬ったが、留賛も負傷して足が曲がってしまった《孫峻伝》。

兵法書三史好んだが、古代将軍戦いぶりを読むたびに歎息していた。そこで親戚呼び寄せて告げた。「誰もが富貴身になることができるのに、私は足が萎えてしまい、生きていても死んだのと同然だいっそのこと足の筋を切って伸ばしたいと思う。もし死なずに足が伸びればお役立てるだろうし、死んだそれまでのことだ」と。親戚たちはみな反対した。そののち留賛はひとりで足の筋を切断した。血が滂沱として流れ、留賛は気絶した家人はそれを知って驚き配したが、もう後戻りできない考えて足を引き伸ばしてやった。傷が癒えると、つまづきながらも歩くことができるようになった孫峻伝》。

淩統そのこと聞いて彼を招き会ってみて立派だ思い上表して彼を推薦した。こうして試験的に採用されることになった。留賛はたびたび戦功立てて屯騎校尉任じられた《孫峻伝》。時事問題話題になったときは、いつも正論好み他人におもねるような発言はしなかった。そのため孫権は彼を恐れ憚っていた《孫峻伝》。

留賛は部将として出陣し、敵に遭遇すると、必ず髪を振り乱しながら天に向かって叫び、そして声を張り上げて歌い左右の者がそれに応じた。それが終わると進撃し戦え勝てないことはなかった《孫峻伝》。

建興元年(二五二十月大傅諸葛恪に従って東興進出する。このとき冠軍将軍丁奉山岳地帯通過して川の上流を占拠することを提案したので、留賛は呂拠唐咨とともに丁奉とは別の道を通って上流向かった。徐塘にはすでに魏の陣営築かれていたが、彼らが油断して酒に酔っていたので丁奉はこれを攻撃したそのとき留賛らも到着して攻撃をかけたので、魏の軍勢潰走した《諸葛恪伝・丁奉伝》。その戦功により留賛は左将軍任じられる孫峻伝》。

五鳳二年(二五五)正月、魏の毌丘倹文欽叛乱起こした聞き、翌閏月丞相孫峻は留賛・驃騎将軍呂拠伴って寿春攻め上り敗北した文欽合流した。留賛は節を授かって護軍任じられたが、行軍中に病気かかってしまった。そこで孫峻輜重車指揮して帰還させたが、二月、魏の部将蔣班が歩騎四千人率いて留賛を陂まで追跡してきた。留賛は病のため布陣整えることもできず、敗北悟った孫亮伝・孫峻伝・高貴郷侯紀・諸葛誕伝》。

そこで曲印綬子弟預けながら、「私は部将となってからというもの、敵を撃ち破って旗を奪い一度負けたことはなかった。しかしいま病気重く兵士数少ないうえ貧弱だお前たち早く逃げよ一緒に死んで無益で、敵を喜ばせるだけだ」と言った子弟言うとおりにしなかったので、留賛が刀を抜いて斬り付けようとすると、ようやく彼らは去っていった。そこへ蔣班らが襲ってきて、留賛は殺害された。七十三歳であった孫峻伝》。

参照毌丘倹 / 呉桓 / 諸葛恪 / 蔣班 / 孫権 / 孫峻 / 丁奉 / 唐咨 / 文欽 / 呂拠 / 淩統 / 会稽郡 / 陂 / 寿春県 / 徐塘 / 長山県 / 東興 / 冠軍将軍 / 左護軍 / 左将軍 / 丞相 / 大傅 / 屯騎校尉 / 驃騎将軍 / 印綬 / 曲 / 黄巾賊 / 三史 / 節



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